「アレクサンダー・テクニーク」タグアーカイブ

子どもとのアレクサンダー・テクニーク・レッスン

アレクサンダー・テクニークのレッスンに、最近、お子さんもいらしてくださるようになりました。

レッスンしていて、子どもがどんどん生き生きして、最後は飛びはねながら帰っていくようなこともあって、私も楽しくレッスンしてます。

今のところ、レッスンを受けているのは、7歳ぐらいのお子さんからです。
もう少し小さくでもレッスンできるかな? やってみないと、わからないかも?

音楽が好きで楽器を習っている子どもや、スポーツをやっている子どもや、
あるいは、何か特別なことをやっているわけではなくて、ただ日常のなかで、「姿勢が悪くて」すぐに”ぐにゃっ”としてしまうことを保護者の方が心配して、来られることもあります。

小さなお子さんとのレッスンでは、

・いろいろな動きをやってみること
・テーブルに寝た姿勢でのワーク (意外とライダウンワークが好きな子どもが多いようです)
・何か興味があることがあれば、それをやってみる(楽器や、スポーツや、遊びや、その子どもが興味を持ってよくやる動きや姿勢を)
・少し大きい子どもなら、骸骨の模型を見たりしながら、人間の構造に興味を持ってもらう

ということなどを中心に進めていきます。

子どもにレッスンするときに大事にしたいと思っていることは、
「こうするべき」ということを教えるのではない、ということです。

大人の場合でも、実は同じなのですが、
子どもはとくに、大人から「こういうときは、こうするべき」と、言われる機会がすごく多いと思うのです。
それが必要な場面もあるかとは思いますが、
アレクサンダー・テクニークのレッスンに関しては、
「するべきこと」を、他人から聞いて、そのとおりにやれるようになることに価値をおくのではなく、
「こういうふうに思ってみたら、こうしてみたら、どうなるかな?」と、可能性をみせて、
やってみる、あとは、それを使うかどうかはその子どもにゆだねる、
というスタンスを大事にしたいです。

でも、なにか興味があるアクティビティがやりやすくなったり、からだが楽になったりするとうれしい、
というのは、大人も子どもも同じですね。

レッスンを受けてもすぐに忘れてしまうかもしれないけれど、それはそれでかまわない。
体験したことは、覚えているし、使う必要が出てきたら、使えばいい。
そして、わかりやすく「姿勢」としては表に現れないレベルですでに心身のコーディネーションが働きはじめている、ということもあるので、それを信頼したいと思います。

小さいお子さんの場合、保護者の方がつきそいで来られる場合が多いですが、
そういうときは、保護者の方にもなるべく一緒に参加していただきたいと思っています。
動きのゲーム(よつばい歩き、背中をあわせたり、足をあわせたり、手を動かしたりするゲーム)を、一緒にやってみたり、
可能なら、大人と子どもそれぞれ、ひとりひとりのワークもできたら、ベストです。

保護者の方は、自分はいいから、子どもに・・・、と、思われるかもしれませんが、
お父さんやお母さんがレッスンをして、ふだんと変わってより生き生きとした姿を見ると、子どもは興味の持ち方が、がぜん、変わってきます。
同じことをやっていても、このように質が変わるのだな、ということを、目の当たりにして見るのは大きいです。

そして、親子で、同じような癖をもっていることに気づくことも多いです。
ただ、大人でも子どもでも、「癖を直しなさい」と、人から言われたくはないですよね。
けれど、癖はお母さんでも子どもでも、誰でも持っていて、それを変えたければ変えることができるんだな、
ということがわかれば、
少しゆったりとした心持ちで、遊び心をもって、家に帰ってからもときどき親子で思い出してみられるかもしれませんね。

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsでは、子どもも大人も、親子でも、レッスンを随時受け付けています。

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見えないところで視覚野を使う(アイボディ合宿)

能楽堂のさる3

この写真は、先月はじめに京都であった、ピーター・グルンワルドの”アイボディ(Eyebody)”の合宿のときのものです。京都の北部の修学院というところにある関西セミナーハウスのなかに、100年前につくられた能楽堂があって、今回はそこを会場に、三泊四日のセミナー合宿がありました。

その最後の日の朝、視覚の経路をたどる瞑想を、みんなでしていたら、猿たちが大勢、庭をとびまわっていて・・・。

すごいスピードで庭の端から端までかけまわったり、木に登り、そこから、とととと、と、足音をさせて、屋根に登り、すごく元気な猿たちでした。

子どもを連れた親たちが、何家族か、いるようでした。
大人の猿や、走り疲れた猿は、屋根のてっぺんに上って、のんびり座っていました。

—–

さて、アイボディとは、ピーター・グルンワルドさんが、アレクサンダー・テクニークやほかのワークを、自分自身の経験をもとに独自に発展させてできた、目の使い方、そして脳の使い方のワークです。

ピーターは10センチ先もぼやけるほどの近視だったそうですが、今は全く眼鏡を使っていないのです。でも、ワークショップは単に視力をよくするのが目的というだけでなく、自分の目そして脳の使い方の癖を知りそれを変えて、より生き生きと、”今に生きる”ためのものでした。

私自身も近視で、部屋の中では大丈夫ですが、外出のときには眼鏡を使っています。

でも、そういえば合宿のあと、眼鏡をかけなくてもあまりストレスを感じていないです。

以前は、見えないことにストレスを感じていたのですが、最近は、外を歩いていて、文字などは見えないこともあるので、文字を読む必要があるときは眼鏡をかけるけれど、ほかは、「見よう!」とがんばらなくても自然と入ってくる情報を、前より信頼できるようになって、前よりリラックスできるようになったような気がします。

合宿の詳細については、盛りだくさんだったので全部は書ききれませんが、そのなかで、ワークをそれぞれの日常のことに応用するワークをやったときのことを書こうと思います。

歌を歌う、コンピューター、折り紙、お札を数える、など、それぞれの人が、いろいろなことをやって、見ていてとても興味深く、自分の日常にも応用できるヒントが得られました。

私は、鞄のなかから物を取り出す、ということを、みなさんの前でやって、先生のピーターに見てもらいました。
私はいつも、鞄のなかに物をつめこみすぎる傾向があって、そこから必要なものを取り出そうとしたとき、なかなか出てこなくてあせる、ということが、よくあるのです。

それで、鞄からお箸をとりだす、ということをやってみました。

マイ箸をせっかく持ち歩いているのに、必要なときに見つからずに、結局割り箸を使ってしまう、ということが多かったのです。

まず、いつものようにやってみると、

「君は、見ないで取り出そうとしているようだね」

と言われました。

「暗いし、鞄の中には物がたくさんなので見えないし、でも見えなくても、手の感覚でわかると思ったんです」

と言ったら、

「見えなくても、視覚野を使ってごらん。そのものを視覚化(ヴィジュアライズ)して、思い浮かべてごらん。

ヴィジョンがリードして、動きがついてくる、そういう意図を持ってみて。」

と言われました。

それで、自分のお箸入れの色や形を思い浮かべてから、もう一度鞄に手をいれてみると、

あらふしぎ、すぐにお箸がみつかりました。

その一連の私の動きを見ていたほかの参加者の方々が、

「動きがさっきと全然ちがっていた。茶道をやっているみたいに、手が美しく見えた」

などと、言ってくれました。

たしかに、最初は(=いつもは)、無駄な動きがすごく多かったな、ということは、自分でもわかりました。

アイ・ボディは単純に目の使い方というより、脳の使い方なのだ、ということは、概念として聞いてはいたけれど、

実際に見えないものを探すときにも使えるんだな、

ということが、具体的な日常動作で経験できたことは、とてもよかったです。

それで思い出したのですが、以前、視覚障害者の人に会ったとき、その人の動きが、無駄がなくてとてもきれいだったことです。

すごいな~、どうしてそんなことが可能なのだろう?と思っていたのですが、そうか!目の見えない人は、きっとそういうふうに視覚野を使っているのでしょう。

—–

この合宿より話はさかのぼりますが、誕生日の日に同居人が、「なぞの旅」をプレゼントしてくれました。

行き先を知らせずいろいろおもしろいところに連れて行ってくれるということで。

雰囲気のよい映画館で、言葉のない映画を見たり、夕日がきれいな山にのぼったり、森のなかのレストランに行ったり、たのしかったのですが、

そのとき、しばらく目隠しをして、手をつないでもらって歩きました。

そのとき気づいたのが、目隠しをして歩くと、意外にも、自然に背筋が伸びて、歩くのがいつもより楽だった、ということでした。

いつもは、無意識に、前に見えるものの刺激に反応して、気がつかない程度に顔を前につきだしていたのかもしれません。

安全な環境をえらんで、目をつぶって歩くことをやってみること、お勧めです。

首を楽に、と思うと、バランスを取りやすいですよ。

去年のアイボディ合宿のことはこちら

こちらは、今年の2月に個人レッスンに参加したときのこと。
アレクサンダー・テクニークlittlesoundsでの、アレクサンダー・テクニークのレッスンのスケジュールはこちらをご覧ください。

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続「意識する」ということ~観察について

先日のブログに、「意識する」ということについての文章を書きました。

そのなかで、意識しようとして、「意識すること」以上のことを、やりすぎてしまう場合がある、ということを書きましたが、「意識しようとしすぎ」と、「意識しようとしなさすぎ」のバランスというのは、なかなか大きなテーマなのかもしれません。

自分自身について、なにか変化を望んでいるとき、

「意識する」ということは、やっぱり必要なことだし、大事なことです。

でも、なぜかそれをやりすぎてしまって、硬くなったり、逆効果になってしまう。

あるいは逆に、意識しすぎてもうまくいかないからと、あきらめてしまう場合もあります。

「意識してもかたくなってしまうだけだから」、そして、

「これは長年の性格だし、性格は変えられない」

「生まれつき○○だから、しょうがない」「昔からいつも、ずっとこうだったから」「今の状況が大変だから、しかたがない」

それぞれ、もっともな理由はあるし、なかには本当に仕方のない状況の場合もあると思います。

でもそんなときでも、自分のなかから、少しの変化を起こすことができる可能性は、あるかもしれない。

その可能性が、今はまだ具体的には形として見えなくても、可能性の萌芽としては、手元に残しておいてはどうかな?と思うのです。

私はどうも、「意識しすぎ」と「意識しなさすぎ」には共通点があるのではないかと思います。

それは、早く結論を出そうとしてしまう、ということではないでしょうか?

なりたい自分の姿に、一足飛びになろうとしてしまう。

あるいは、どうせそれは無理だから、と、早くにあきらめてしまう。

その気持ちはとてもわかるし、私自身も、そう思ってしまうときはあります。

でも、少しそういうふうに結論づけるのを保留して、自分自身の観察者になってみる、そういうときがあってもいいんじゃないかな、と思います。

その観察者は、批判したり、良い悪いを判断したりせず、ただ、好奇心をもって、観察してみる。

ふだんだったら、うまくいかない自分自身にイライラしてしまうかもしれませんが、だれか第3者になったようなつもりで、観察者になって、みてみると、なかなかおもしろいものだと思います。

これを読んで、「瞑想みたい」と思われた方もいるかもしれません。

私自身は、瞑想の考え方は好きですが、じっとして瞑想するのは、大きな声では言えませんが、あまり得意ではありません。(でもだからこそ、たまにはやる必要があるな、とは思って、たまにやると、効果を実感します。本当はもっとやるといいのかも?)。まあ、私のことはともかく、でも、アレクサンダー・テクニークも、ある意味、動きの中での瞑想といえるのかもしれません。

アレクサンダー・テクニークを使って、仕事をしているときや、人と話しているとき、歩いているとき、音楽をたのしんでいるとき、などなどに、そこに瞑想の質をもってくることができるのではと思います。

アレクサンダー・テクニーク的に観察するときのコツのひとつは、その動きに入ろうとするときに何が起こっているかを、観察することです。

たとえば、コンピューターに向かっているときに、ひどく疲れる、という人だったら、最初にコンピューターの前に座って、コンピューターをひらき、手をキーボードに持っていこうとするまでの動きを観察してみる。

一度に全部を観察しなくても、そのなかのひとつの動きを観察するのでもかまいません。

とにかく、その行為のなかに入ろうとするその前の動きを観察してみるのは、自分の反応のパターンから何かヒントを得るのに、とても役に立つと思います。

もうひとつは、部分ではなく、自分自身全体を観察することです。

体のどこか~人によって肩であったり、腰であったり、そしてそれが左側であったり、右側であったり~が、いつも痛くなりやすい、または硬くなりやすい、ということに気づいている人は多いと思います。

でもそれで、その、痛かったり硬かったりする部分だけに焦点を当て続けすぎないほうがいいと思います。

いったん、それに気づいたら、その箇所からひとまず離れて、全体をスキャンするように観てみるか、あるいは中心の頭~背骨全体~骨盤~と、観てみてください。

部分に異常感が出るのは、自分全体をどう使っているかの現れなので、自分の全体を把握しておいたほうが、より根本的な変化につながりやすいと思います。木を見るだけではなく、森全体を見る、ということですね。

自分全体、というからには、物理的な体だけでなく、心理的、精神的なパターンにも気づくかもしれません。体と心はひとつのものなので、それも大切にしながら、体のことと、心のことと、行ったりきたりしながら、観てみるといいと思います。

「良い」「悪い」はないことなので、楽しんでやってみてください。

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsでの、アレクサンダー・テクニークのレッスンのスケジュールはこちらをご覧ください。

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腰痛とアレクサンダー・テクニーク

暑いと思っていたら、急に冷える日があったりして、だんだん、秋になってきますね。

みなさんお元気でしょうか?

この季節の変わり目に、風邪をひいたり、腰痛やぎっくり腰などになった方もおられるようです。そういう私自身も、風邪をひきました。

風邪をひいたりすることは、デトックスになるし、新しい季節への準備を体がしてくれているのだと思います。なので、風邪や、体を壊すことを敵視しないで、いつもより少し時間をかけて自分をいたわるチャンスだと思うとよいのではないかな、と思っています。

さて腰痛やぎっくり腰には、アレクサンダー・テクニークを生かすことができるのではないかと思います。

とは言っても、本当に一番、痛いときには、寝ているしかなかったり、あるいは、アレクサンダー・テクニーク以外の施術やセラピーや東洋医学などのほうが、より早く効果が得られるかもしれません。(人や状況によって相性があるでしょう)。

ただ、アレクサンダー・テクニークは腰痛やぎっくり腰が再発しにくいための予防になるのと、また、腰痛やぎっくり腰が起きてしまった後のリハビリに役に立つと思います。

たとえばぎっくり腰になって、最初は歩くのもつらかったけれど、歩けるようにはなってきた。ただ椅子に座ったところから立つのがつらい、というようなとき。

腰をかばおうとして、かえって足腰に力を入れて踏ん張ってしまう、というようなことが、よく起こるようです。

足腰で踏ん張って立とうとするかわりに、

「『首が楽なままで』 頭が先導して斜め上の空間に向かうことを目指し、それに背骨がついてくる。そうしたら背骨の一番下にある腰もついてきて、その下で曲がっていた脚は自然に伸びてくる」。

と、アレクサンダー・テクニークの方向性を思って、動いてみては、どうでしょうか?

そのときに、案外忘れられがちなことですが、立とうとするとき、足の裏は地面についており、足をつうじて地面がサポートしてくれます。その地面のサポートを使うことも忘れずに。

でもまだ立ってはいなくて座っているので、足は体の前方にあります。なので、前方のほうの地面のサポートを得て、その上に向かって動いていく、と、思ってみましょう。

なので、垂直に上にでなくて、少し斜め上を目指してよいと思います。

いかがでしょうか?

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsのサイトはこちらです。

腰痛を持っていた方のアレクサンダー・テクニーク・レッスンの体験談はこちら。

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愉気の会~触れることについて(アレクサンダー・テクニークと共通するもの)

整体(野口整体)の、「愉気(ゆき)の会」に、ひさしぶりに参加しました。

整体協会の本部道場がある二子玉川も、何度も通いましたが、ひさしぶりに来てみたら、再開発で大規模に工事中で、全然変わってしまっていました。
でも本部道場が近づくと、変わらない風景です。

講座では最初に野口裕介先生のお話がありました。 註) 野口晴哉先生のご子息のひとりです。
「進化論が正しいかどうかはわかりませんが、そういうひとつの考え方がある」などといいながら、人類のはじまりから、人類が、スピードが出て安定する四足歩行をあきらめてまで、手を使うようになった話、それから、手を使って愉気をする話になるという、壮大な話を、いろいろ脱線しながらされて、おもしろかったです。

それから全員で円を作って、手をつないで気をあわせ、手の感覚をとりもどす。そして、脊椎行気(=背骨に気を通すこと)、二人組みで、ひとりが寝て、背中に愉気 という流れは、何年も変わらずいつも同じです。その後やることは、季節にあわせて変わります。先日の会では、横向きになって股関節の愉気をやりました。

愉気の会は、最初は子どもをもつお母さん向けにということではじまった講座だそうです。専門家向けではなく、一般の人向けの講座です。(整体協会のメインは、そういう講座なのです。)でも、一方的にしてあげるのではなく、手をあててあげて、手をあててもらって、「お互いに」、というところがポイントになっています。

私はこの講座が大好きで、何年も来ています。(最近は少し間が空いてしまいましたが)。どこが好きかというと、シンプルで、「ただポカーンとすればいい」ところ。

そうなのです。「ポカーンとする」のが一番大事だと、講座では言われるのです。
「具合が悪そうなので直してあげたい」と、一生懸命になってしまうと、「心配の気」を愉気(=気を送ること)してしまうので、よくないのだそうです。

でも「ポカーンとする」(無心になる、ともいいますね)は、なかなか難しいときもあるので、円を作って手をつないだり、脊椎行気をしたりしてからはじめます。すべて簡単なことなので、家でも誰でもできます。でも、会に参加してみなさんとやると、やはり、やりやすいので、私はなるべく定期的に(といかないことも多いのですが)通うようにしています。

人の体に手をあてるとなると、「どこにに手をあてたらいいのか?」ということが、気になりますが、それもあまり気にしなくていいといわれます。一応、効果的な場所は先生は知っているし、教えてもくれるのですが、一番大事なことは場所ではないといわれます。場所があるとすれば「つい、手がそこにいってしまう」場所がよい、というのです。
そういうふうに、本能というか、「勘」「感覚」というか、そういうものを大事にすることを教えられます。

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私にとってはアレクサンダー・テクニークで生徒さんに触れるときも、それと同じ感覚です。アレクサンダー・テクニークでは、「本能」というような言葉は使いませんが、どこに触れてもその人全体に触れているのだから場所は問題でなく、一番大事なのは、「あなた自身の自分の使い方」だ、と言います。

言い方は違いますが、だいたい同じことだな、と私は感じます。

逆に、たとえば首であるとか、ある一箇所が気になって、そこだけに教師の意識がいってしまうと、教師自身の意識の範囲が狭まってしまって、触れられても心地よくないし、変化も起こりにくくなってしまうのです。だから、首に触れるにしても、その人全体を思うことが大事なのです。

これは、自分で自分にワークするときも同じです。体の一部分だけに意識を集中させないことが大事なのです。

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愉気の会がおわったら、頭も体も全体的にすっきりして、また、股関節の愉気もしてもらったので、股関節も動きやすくなりました。最近、スポーツ車タイプの自転車をまたぐときに、足をあげにくいと感じることがあったのですが、それもなくなっていました。

股関節の愉気は、今の季節(2月ごろ)に、小水が近くなるというような症状にも、よいようです。あわせて、水をよく飲むことも勧められました。(ガブガブ飲むのではなく、ちびちび、少しづつ飲むのがよいそうです。)

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このように、愉気というのは効果もあるし、とてもよいものなのですが、それとは別に整体操法というのが、整体協会では、あります。整体操法は、治療という言葉は使っていないけれど、手での施術を使って、体を整える、治療的なものです。いわゆる「整体」といって多くの人がイメージするような、先生にやってもらうものです。

でも治療という言葉を使わないのは、あくまで、自分で自分の体を整えることが主で、そのために愉気や、活元運動があって、それの補助として、整体操法がある、という考え方だからということです。

(この考え方も、アレクサンダー・テクニークと共通しています。アレクサンダー・テクニークでも、教師がハンズ・オンしながら教えるのは、あくまで「教育」だといいます。自分の使い方を学ぶためのひとつの手段なのです。ただ、アレクサンダー・テクニークには、愉気や活元運動にあたるものは、ないかな?)

さて、あるとき、愉気の会で、愉気はしろうとにこそできるもの、という裕介先生のお話があったことがありました。
それはなぜかというと、「愉気は時間がかかりすぎるから」ということでした。

その人そのときの状況によって、どのくらいの時間で終わるかわからない。早く済むjこともあるけれど、えんえんと、時間がかかることもある。それを、時間を気にしないで待つ覚悟がなくてはいけない。
それは、専門家にはできないことだ。専門家は、一日何人もの人を見なければならないし、時間を気にしないでやるわけにはいかない。ということでした。

なるほど!!と思いました。

そう考えると、愉気はとてもぜいたくなものです。
そして、専門家には専門家にしかできないことがあるのと同時に、
しろうとにしかできないこともあって、
それはどっちが優れているとか、そういうことではないのだな、
ということが、わかったのでした。

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愉気については、整体協会の直営の書店である、全生社から、『愉気法1』『愉気法2』という本も出ています。なかなか、よい本です。

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アイ・ボディの個人レッスンを受けました。

先日、”アイ・ボディ(Eyebody)” の個人レッスンをするために、マティアスさんという先生が来日していました。
”アイ・ボディ”というのは、アレクサンダー・テクニークをルーツにした目の使い方/脳の使い方のワークです。
去年、その4日間の合宿に参加したときのことは、こちらに書いています。

今回は、合宿をリードしたピーターではなく、アシスタントのマティアスが来てくれました。
ピーターは、目と脳の使い方について、さまざまなことを自分で探求して、発見したアイ・ボディの創始者だけあって、天才肌の人ですが、ピーターの弟子のマティアスは、もっと普通の人という感じです。良い意味で普通の人。

今回、私もレッスンを毎日受けて、また通訳のお手伝いもしたのですが、マティアスが、たくさん来る生徒さんの名前を全部覚えて、名前を呼びかけながらレッスンを進めていくところや、その人がどういう問題をかかえているのか、というようなことを丁寧に質問しながら、じっくり見て、誠実にレッスンを進めていく姿がとても印象的でした。
レッスン内容も、深くてとてもよかったです。

私は、
一日目は基本的なワーク、
二日目は、通訳をするときの目と脳の使い方 (→ 通訳するとき、緊張するので、目も体も、脳も固まりがちなのが、自分で気になっていて)、
三日目は、Ipod touch(=Iphoneから電話機能をとったもの)でTwitterをみること、
の、ワークをやってもらいました。

Ipod touchは小さいので、小さい画面でどんどんスクロールをしながらTwitterを読むと、目や体が疲れる、という問題が、以前からあったのですが、それだけでなく、読む内容のことがありました。

ちょうどそのとき、エジプトのデモの話題を見ていたのです。現地からのリアルな声が入ってきて、まだ収束に向かう前で、死者が出たり、一番、緊張感があるころでした。
そういうことを、たまたま知ってしまって、気になってしまって、Twitterを見ると、そういう情報がどんどん入ってくる。そういうニュースを見るのはつらいことでもあるのだけれど、ただ、世界の少しでも多くの人が見守っていることが、不当な暴力が行われたりすることの抑止力になる、という側面も、あるようなのです。
でも、だったらそのときに、自分が大変になってしまわずに、居られたらいいな、と思いました。

 註※ #egyjp (日本語) #egypt (英語)というタグをつけてツイッターで検索すると、エジプト情勢についての現地からの声を中心とした情報が、見られるのです。ちなみに今はエジプトは落ち着いてきたけど、バーレーンやリビアが大変なようですね。祈。

ほかの人のワークのときにも常に言っていたことなのですが、マティアスは、プレゼンス(今ここに在る)という意図をもって、見る、ということを、ワークしてくれました。
「プレゼンス」というのは、見るという文脈でいうと、「”overfocusing” フォーカスしすぎ」でも、「”underfocusing” フォーカスしなさすぎ」でもない、目と脳の使い方、だということです。

でもその前に、そもそもなぜエジプトのニュースが気になって、見たいのか、ということを先生が質問してくれました。それで、自分がニュースを追っている意図が、自分なりにクリアになったところから、見るという行為に入り直せました。そうすると、自分がプレゼンスにいる助けになって、もう少し、落ち着くことができました。
それは、自由への意図であり、共感への意図だね、と。
あえて言葉にされてしまうと陳腐にも聞こえるし、そんなふうに、まとめられるのは、個人的に好きじゃない場合も多いのですが、でもなぜか、このときには、ワークの助けになりました。マティアスが、言葉のレベルじゃないところで、私の「意図」と一緒にいてくれたからなのかもしれません。

「意図(intend)」という言葉は、ピーターもマティアスも、とてもよく使います。

私にとってはあまり日常的に使う言葉じゃないので、最初、ピンとこない部分もあったのですが、アレクサンダー・テクニークで 「思う(Think)」ということと、同じことなのかな、と思います。
”Think” というと、考えすぎちゃう、というか、ウーン、と、うなりながら、コネクリまわして考えるような、重たい考えをイメージしてしまう場合があるので、意図(intend)にしたのかな?

アレクサンダー・テクニークでも「思うだけ、やらない」と、よくいうのですが、それと同じことなのかな、と思いました。何も考えないわけではなく、クリアー(明晰)に 「思い」、でも、そのために余計なことは 「しない」。

これはなかなかむずかしくて、ふだん私たちは、「思う」のと、ほとんど同時に、何かをやってしまっていることが、多いのですね。

マティアスは、
「プレゼンス(今ここに在る)という意図をもって」 に続けて
「判断を手放して」 とか、
「分析を手放して」
「理解しようとすることを手放して」 とか、
「どこかに到達しようとすることを手放して」
というようなことを、ハンズ・オン(手を触れ)しながら、その人や状況に応じて、言っていました。

たとえば、本を読もうとする人のワークのときには、
「内容を手放して、理解しようとするのを手放して、情報が光の粒子として届いてくるのをゆるす」
と。
内容をいったん手放すと、かえって内容が入ってくるし、理解を手放すと、結果的に理解できる、ということが、あるのです。
最初、老眼で読みづらそうだったその人も、だんだん、読めるようになってきていました。

これは、アイ・ボディのワークの報告でしたが、アレクサンダー・テクニークから派生して発展したワークなだけあって、アレクサンダー・テクニークの考え方のプロセスと、共通するところがたくさんあります。
どちらも、お勧めです。

”アイ・ボディ” の日本語サイトはこちら。

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsのサイトはこちらです。

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PCでのデザインワークと、アレクサンダー・テクニーク

京都でのアイボディ合宿のとき、H君という2歳の男の子がいるN家に泊まらせてもらっていた話を先日書きました。お母さんのNさんは、アレクサンダー・テクニーク仲間であると同時に、自宅でデザインの仕事もしているのですが、今回、私のレッスンを受けたい、とくに見ることについてのレッスンを受けたいと言ってくれたので、連日の3食のご飯と交換で、レッスンをしました(とてもおいしいご飯を毎日いただいていたので、交換条件としては、私のほうが、うんと得をしすぎですが)。。

デザインの仕事は締め切り前になると、根をつめてパソコンに向かわなければならず、目が相当疲れます。そのとき、ちょうど締め切りが終わった直後だったのです。そしてちょうど、その仕事の「直し」が来たので、「じゃあ、その直しをやっているところを、レッスンとしてみてもらうことはできないか?」ということになりました。

仕事の姿勢や動きをレッスン中にやってみることは、よくあるけれど、リアルで仕事をしているところをアレクサンダー・テクニークのレッスンとして人にワークをする機会は、はじめてじゃないかな? ちょっとどきどきしながら、やってみました。

パソコンの前に座って、ソフトを開いてファイルを開いて、デザインの修正をはじめます。
注意力がパソコンの画面のほうに行きます。そうするとだんだん座っている姿が微妙に、あえて言葉にするとすれば浮いてくるような風になってきます。画面に注意力を集めながらも、画面から入ってきた情報が、頭全体の奥行きを通って、そして体全体を立体的に通って、本人の骨盤や地面の方向にも来る、、、というような方向性で、無言で彼女にハンズ・オン(=手を触れる)しました。

方向性を思いながらハンズ・オンするのは、姿勢を変えるためではなく、気づきをもってもらうためなので、ハンズ・オン後も見た目はほとんど変わりません。
ハンズ・オンされながら仕事なんて、やりにくいんじゃないか、と思う方もいるかもしれませんが、形としての姿勢を変えるわけではないので、そうでもないのです。
でも、気づきを持つと、すぐに刺激に対する反応のパターンが変化するのがわかります。

画面から来る情報に対して彼女は最初、「むこう(画面の方)に行きたくなる」というような反応をしていた、ということに気づき、それを抑制します。

画面からの情報は向こうから光としてやってきて、眼球をとおして入ってきて、脳に届いて、脳が認識します。
(脳のなかで、見えたものを認識する”視覚野”は、脳の一番後ろ部分にあるのです。)

いつもの「向こうに行きたくなる」反応を抑制することができると、
そのように「情報が向こうから入ってくるのをただ受け取る」ということができます。

でも、癖は根強いので、癖の反応のほう、受け取ることのほう、を行ったりきたりしている様子でした。その間も、デザインの修正の仕事は進んでいます。
特に、単純作業でない部分、考えないといけないところにくると、とたんに「むこうに行きたくなる」ということに、彼女は気づきます。

「でも、取りに行かないで、受け取れてるときのほうが、よく見える!」
と、彼女は言います。「それに、楽!」。
デザイン修正の仕事が完成し、メールを書いて添付して、送信しました。

窓からは午後の光が差し込んでいたので、アイボディ教師、ピーターに習った、目をつぶって太陽をみる目の日光浴(サンニング)と、パーミング(手で目を覆う)、を、何回か繰り返しました。「気持ちいい!」
今日は朝から外に出ていないけれど、家のなかにいても、太陽をこうやって受け取れるのは嬉しいです!
さらに、ピーターに習った、窓の外の景色を、近くのもの~だんだん遠くのもの~そしてまた近くのもの~と、奥行きを追っていきながら見るワークをしました。外の小川を水鳥が泳いでいます。

ワークが終わったらNが抱きついてきました。
あんまり普段そんなふうにする人でもないので、内心少し驚いていると、
「Hが生まれてから、デザインの仕事はずっとこうやって続けなあかんな、という覚悟ができて、楽な分だけというわけにはいかへんな、という覚悟をしていたけど、これで、今後もやっていけそうな気がするよ」
というようなことを言ってくれました。

うーん、美しいね。

私も自分の子どもがいないことに甘えず、真剣に生きたいな、と思いましたよ。

パソコンに向かう仕事って、それも一つの肉体労働だと思う。
大変な仕事だけれど、体を壊さず元気に続けてもらいたいものです。

それからお茶を飲んでいると、取引先から、修正OKの電話がかかってきました。(*^^*)

それから保育所にいるH君を自転車を迎えに行ってきたNさんは、「いろんなものの見え方がちがったよ~」と言いながら帰ってきました。

—–

今回、リアルな仕事をレッスンでやる、という体験をはじめてやりましたが、リアルな刺激に反応している本人と、直接ワークできるので、すごく学びになるな、と思いました。

今までも、パソコンをみてキーボードを打つワークや、ノートに文字を書くワークをやることがありましたが、実際に納品するものをその場でやるということははじめてでした。

なので、こんなふうにやりたい方は(あるいは、ここまででなくてもいいですが)、ご自分のパソコンなどをレッスンに持ってきてください。
パソコン以外のほかの道具でもいいですよ。また、うちにあるものなら貸しますので遠慮なく言ってください。

私(石井ゆりこ)のアレクサンダー・テクニークのサイトはこちらです。

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22年ぶりの、先生との再会!

みなさん、GWはどう過ごされましたでしょうか?
ゆっくり休まれた方も、お仕事をされていた方もいらしたかもしれませんね。GW中は、ひさしぶりにずっと晴れていましたね。

私は、アレクサンダー・テクニークの合宿に学び&教えに行ってきました。

ミード・アンドリュース(Meade Andrews)さんという、22年前に私が初めてアレクサンダー・テクニークの合宿に参加したときの先生と、22年ぶりに会えて、うれしかったです。
先生は私の顔は覚えていたけれど、どこで会ったかは覚えていなくて、「22年前に京都でです」と言ったらびっくりされていました。でもその後、いろんなお話ができてよかったです。

今回のワークショップの内容も、とてもよかったです。また咀嚼して、ブログなどでシェアしたり、自分のTeachingにも生かせたらと思います。

当時、私は20歳、ミードさんは46歳、
今、ミードさんは60歳なかばを過ぎ、皺などはあるけれど、でも動きをみるととても美しいのです。合宿では参加者のチェロに合わせた即興のダンスも披露してくださいました。喜びにあふれたダンスでした。あんなふうに歳をとりたいものです。

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsのサイトはこちらです。

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ボストンのアレクサンダー・テクニークの学校

playjulian'sguitar
ボストン近郊の学生都市ケンブリッジのAlexander Technique Center at Cambridgeに来ています。

今、カフェでマフィンを食べながら、これを書いています。
アメリカではマフィンは、食べきれないぐらいすごく大きいけれど安くておいしいです。(アメリカでおいしいものといえば、マフィンとエスニックフード!)

昔の記録を振り返ってみたら、ここボストンの学校にはじめて来たのが2001年で、今回は9回目の訪問です。去年、校長であるトミー・トンプソン先生が初来日しました。日本では通訳もつくので、こっちで英語で聞いてわからなかった話もわかって感激しました。(トミーは語りが上手で、とにかくエピソードをたくさん話してくれるのです)。

それでもやっぱりここの学校で毎日学んでいる学生たちと学ぶ機会は貴重です。
学生は3年で卒業するので、私が最初に来たときの学生たちはもういないし、その後何代か入れ替わってます。今回、2年ぶりに来て、知らない人も多いので最初、不安でしたが、今、学んでいる人たちもみんな魅力的で親切な人たちでした。

今いる学生は
・韓国人のSさん
・ジャズギタリストのJ君
・ヴァイオリニストのAさん
・ヨガ教師のWさん
の4人です。

今日はこれから、Wさんのヨガ教室に、クラスメート達と行きます。
アメリカのヨガは激しいって聞いているけど、どうだろう?
「やりたいところだけやったらいいから」とは言われているけど。

きのうは学校でWさんは、「友達が来てくれるのはすごくうれしいんだけれど、実はすごくナーバスになる。やっぱり評価を気にしてしまう自分がいる」と言って、それについてワークしたりもしました

学校では話し合うことと、お互いに手を使ってハンズオンすることを交互にやります。
アレクサンダー・テクニーク学校によっては、1年生は他人に触れてワークすることはせずに、ワークを受けることと、自分でワークすることに徹するところもありますが(そういうアレクサンダーの学校のほうが多いかも?)ここでは1年生のときから両方の役割をやります。

ワークする側と、ワークの受け手が対等な関係で、お互いに聞きあいながらやるのです。言葉のレベルと身体的なレベル、両方で。
それでフィードバックを聞きあいながら実験、探求するのです。

ここの学生は、フィードバックが上手い。
「よい」「悪い」のラベルを貼るのではないやり方で、感じたことを相手に伝えることがすごく上手いと思います。だからすごく勉強になります。

彼らが卒業して教師になったとき、そういう態度で教える教師になったらすごくいい教師になるだろうな。

—-

今週は、寝た姿勢でのテーブルワークと、あとはギターやヴァイオリンの演奏中にワークする探求を、みんなでずっとやっていました。

アレクサンダー・テクニークのワークをするとき、改善点を見てそれを直すという態度に、つい、なりがちですが、それをやめる練習をしました。

改善点を見ようとすることは置いておいて、まず音楽をよく聴き、音楽が自分のなかで共鳴する場所からワークしはじめる、そして近づいていってハンズオンする、という練習です。

人にワークするだけじゃなく音楽とも一緒にいてワークする。

これはけっこう難しかったです。
聴き手として、音楽を楽しむのは全然できるけれど、
音楽を味わって楽しみつつ、能動的に働きかける。しかも、コントロールしようとしないで!
というのは、なかなか難しかったです。

でもすごく大事なことだと思います。

先生に助けてもらいながら、それが上手くできたときは、ミュージシャンにとってもすごくよかったみたいでした。
「今までにないような新鮮な気持ちで一音、一音に向き合えた!」
と、驚いたように言っていました。

私がミュージシャンの役割だったときも、うん、たしかにそうでした!

いつも習いに来ると思うことなのだけれど、コントロールしようとする癖に本当に入りやすいということに気づきます。
私は性格的に、人にコントロールされるのも、するのも好きじゃないはずなのに、それでも何かをやろうとするときにはコントロールしようとする癖にいつのまにか入っているのだな。

アレクサンダーの言葉で、結果を急ごうとすることをエンド・ゲイニング(end-gaining)と言うのですが、改善点を見てそれをすぐ改善しようとするのもend-gainingなのです。結局それはあまりいい結果にはつながらない。

たとえ本人がどんなに困っていたとしても、悩んでいたとしても、起こっていることは、よいこと”fine”なのだ。

と、先生のトミーは言っていました。

そこから、すべてがはじまる。

ボストンでのアレクサンダー・テクニーク:カテゴリー一覧

石井ゆりこの、東京と神奈川でのアレクサンダー・テクニークのレッスンのスケジュールはこちら

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ジュリアンのギターと、コンストラクティブ・レスト

最近、仕事もちょっと忙しいのだけれど、コンサートなど楽しいことの予定も、なぜか続いています。

きのうは、私がときどき行っているボストンのアレクサンダー・テクニークの学校のトレーニング生でギタリストの人がいるのですが、そのジュリアン・レイジがコンサートのために来日していて、彼のコンサートに行ってきました。

私はボストンに行ったとき、ジュリアンにもワークの生徒さんになってもらったりしていました。そのときは、私のほうが生徒さん役になってもらってありがたいのに、中華料理をおごってくれたりしました。とても人懐っこく親切な青年で、私が異国で心細く感じていたときの一番の清涼剤になってくれた人かも。
おいしいものとか、いい香りのするものが大好きな人です。

私がクラスにギターを持っていったとき、私のギターを見て、「ちょっと弦高が高いから、ハイポジションが弾きにくいんじゃない? サドルを削ってもらうといいかもね」
と言ってくれたのだけど、その後、弾いてみて、と言って弾いてくれたら、同じギターとは思えないほどいい音がしました。
弾きにくいはずのハイポジションの音もとてもきれいな音がしました。

クラスで弾いてくれたとき、さすが上手いし、たのしそうに弾く人だな、すてきだな、と思ったのですが、きのう、ライブを観て、あらためてすごいと思いました。

ピアニストのテイラー(10代の頃から一緒にやっている仲間だそうです)とのデュオで、ジャズをベースに、自らが作曲した曲を演奏してくれました。

曲は、リズムもコードもどんどん移り変わる、結構複雑な曲が多かったです。急に止まったり、急にはじまったり、緩急の変化するリズムなのに、(ジャズだから当然かもしれませんが)指揮者もなく、ピアニストとの息がぴったりあっています。

そして、まるで準備しないで弾いているように、即興のように聞こえるのです。その場で起こっていることをそのまま音にしているかのようです。

そんな音楽を、ときおり、にこっと笑ったりしながら、自然体でラクそうに、そして楽しそうに演奏しています。そういう意味では、クラスで5、6人の前で弾いてくれたときとまったく変わらず、そこがまた、いいんだよね。

いい時間でした。

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コンサート会場でジュリアンのCDを買ったら、曲目が、なんだかアレクサンダーっぽいような。。

“clarity”(明晰さ)
“all purpose beginning”(すべての目的がはじまる所)
“familiar posture “(慣れ親しんだ姿勢)
“constructive rest”(建設的な休息)
などなど。。

“constructive rest” というのは、ひざをたてて仰向けになって休むことをアレクサンダー・テクニークでするのですが、それを人によってconstructive restと呼ぶのです。

ジュリアンのライブの案内文を読むと、
「かつて神童と呼ばれ、圧倒的な実力で天才の名をほしいままにする」
なんて。。(そんなにすごい人だったんだなあ。)
でも、きのう聞いてあらためて、たしかに、と納得。

子どもの頃からギターが上手くて、ギターと相思相愛の人が、
アレクサンダー・テクニークを使うことで、その新鮮さをずっと持ち続けて、それを深めていけるんなら、すてきだな。

と、アレクサンダー・テクニーク関係者としては、思ったりしました。

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CDに書いてあるジュリアンのコメントがいい。

「僕は音楽を自分がコントロールできる領域のものではなく、自然界の延長として捉えている。それに音楽が僕の一番偉大な教師でもあるんだ。音楽を通じて学んだことは、ダイナミックで感銘を与えてくれる人と人との関係性だ。この豊かな環境の一部になれたことに深く感謝しているし、僕が人間的にも音楽的にも成長するにつれて、目の前に現れるべく待っていてくれているものを楽しみにしているんだ。」

でも、この音楽は、やっぱりCDではなく生がいいな。
彼の弾いている姿を見ながら聴けたのが、よかった!

今日と明日も、彼の公演はあります。

Taylor Eigsti / Julian Lage Duo

http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/sp/409.html

東京駅の近くにある、ちょっとおしゃれなジャズ・バーでやっています。
席に座ってご飯を食べたりお酒を飲みながら観る形式で、デートにもお勧めです。(ただ、食べ物と飲み物は、結構高いので気をつけて)。
こじんまりとしているので、どの席でも見やすいです。

7時からの回と、9時半からの回と、総入れ替え制。
(1回行けば両方のステージを観られるのかと思っていたらちがっていた)

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しかし東京の丸の内があんなに近未来的なことになっているとは知らなかった。そして、お店に入ると何もかも高いし。
ジュリアン達は公演が終わった翌日にはもう帰るそうだけど、これが日本なんだ、と思ってしまうのかな?

(もっと、ゆっくりしていければよかったのに。
うちにも来てほしかったな。なんて。)

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