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アイルランド・会議の前の一日半(2001年10月20日,21日)その1

◆アイルランドへ

 ボストン・ローガン空港で、アイルランドの航空会社エア・リンガス(Aer Lingus)のロビーに入ると、そこはもうアメリカではないかのように、がらっと雰囲気が変わった。なんとなく曲線的な体型の人が多い。きちんと並んでいる人が少ない。みんな大きな声でおしゃべりをしていて、ざわついている。そのうるささが、決して嫌な感じではなかった。インフォーマルで、フレンドリーな雰囲気だった。

 機内雑誌を見る。目次のすぐ後に、アメリカの事件についてのAer Lingusのコメントが載っている。港と海の写真がバックで、歴史的にアイルランドからアメリカに渡る人が多かったこと、それで自分たちの航空会社が出来たこと、そして、アメリカン航空で亡くなった職員に対して仲間として追悼したい、また乗客と、その他の犠牲者を追悼したい。今後も、アメリカとの掛け橋として人々の行き来をサポートする仕事をしていきたい。というようなことが書いてあった。事件のあと私は、こういう公式見解では正義をふりかざしたようなものばかり見てきた気がしていたのだが、この Aer Lingusの公式見解はとても心温まる気がした。

 Aer Lingusの機内サービスはとてもよかった。スチュワード/スチュワーデスさん達もみんな感じがよいし、ヘッドホンで聞ける音楽も、アイルランドらしい選曲が、私の好みに合っていた。沢山のチャンネルのなかから選べるアイルランドの映画も、詩情あふれる映像で、好きだった。カトリックの寄宿舎に暮らす少年が主人公の映画と、アニメを見た。ただ、椅子が、私には座り心地が悪く、よく眠れなかった。それを除けば、Aer Lingusはとても感じのよい航空会社だった。

 

◆シャノン空港

 朝シャノン空港(Shannon)についた。ボストンを夜8時に出て、シャノンに着いたのが翌朝7時なのに、飛行機に乗っていた時間がたったの5時間だった、というのが不思議だ。アイルランドには、明日からはじまるアレクサンダー ・テクニークの会議 (AGM)に参加するために来たのだが、同じように参加する人が空港に誰かいるはずなので、一緒にタクシーに乗って会場まで来るようにと言われていた。が、いくつかの便を待って1時間ぐらい空港で過ごしても、それらしき人は来ない。私はあきらめてバスで行くことにした。バスだと途中のエニス (Ennis)という町まで行って、そこから乗り換えることになる。乗り換え時間が3時間位もある。でもバスのオフィスの女性は全然気にしないように「エニスの町を見てまわるといいよ」とにっこり笑ってくれたので、それもいいかなと思い直した。

 シャノン空港はアイルランドでは首都のあるダブリン空港に次ぐ空港で、アイルランド西部への玄関口だが、空港のまわりには、まったく何にもない。ただ丘が続いているだけだ。日本もそうだけど、アメリカも物や建物であふれているので、そこから来ると、全然違う世界に来たようだ。特に、看板や広告がほとんどないのが新鮮だ。

 飛行機のなかで寝られなかった分、すぐに熟睡してしまった。2時間ほどでエニスに着いた。バス停のまわりは、空港のまわりと同じように何もなかったが、町の中心まで歩いてみることにした。ご飯が食べられるところがあるといいな。

 

◆財布がない!

 少し歩いたら町の中心に来た。というか、中心しかないような町だった。まわりは何もなかったのに、中心に来るととてもにぎやかで、老若男女の人々が行き交っている。いろんな種類のお店が並んでいる。それぞれの建物がとてもカラフルで、かわいらしい。黄色や薄緑色や薄いピンク色に塗られている。それと共存して、古い石造りの教会やなどがある。なんだかメキシコの田舎町とも少し似ている。道にはストリート・ミュージシャンもいる。アコーディオンと、アフリカのジャンベらしき太鼓を二人組の若者が演奏している。

 観光案内所(Tourism Information)があったので、入ってみやげ物を見た。Tシャツを買おうとしたら、なんと財布がない。バス停に忘れたらしい。観光案内所のおばさんに言ったら、「荷物そこに置いておいていいからすぐに取りにいってらっしゃい」と言ってくれる。ありがたくそのとおりにする。バス停に戻り、財布を置き忘れたらしいトイレを見たが、ない。

 と思ったら、洗面所にいた女の子が、「財布を忘れたんでしょう?」と言って、私の財布を渡してくれた! 私の顔を覚えてくれていた彼女は、事務所の人が持ってきた私の財布の免許証の写真を見て、預かってくれていたようだ。ありがたい旅人仲間だ。

 観光案内所に戻っておばさんに「ありました!」と報告したら、もう一人のおねえさんと一緒に、すごくうれしそうに喜んでくれた。私はうれしくなった。そしてずうずうしくも、世話になりついでに「荷物をあと数時間このまま置かせてもらってもいいでしょうか?」と頼んだ。快くひきうけてくれた。

 なんだかエニスの町が好きになって、3時間だけの滞在では短すぎる気がしてきた。それで予定を変更することにした。今日のうちに会議があるスパニッシュ ・ポイントに行かなければいけない理由はない。会議は明日の午後からなのだから。今日はドゥーリン(Doolin)という町に泊まることにした。Doolinはアイルランド西部の伝統音楽の中心だと、ガイドブックに書いてあったので気になっていた。それにユースホステルが何軒かあるということもわかっていた。Doolinに行くバスは午後6時発なので、午後いっぱいエニスを見てまわることができる。バスは飛行機と違って予約の必要がないので気軽に予定を変更できていい。

 

◆エニスのカフェにて

 荷物を預かってもらったので身軽に町を歩けてうれしい。ご飯を食べようと思い、にぎわっているのが外からも見える、あるカフェに入った。ランチメニューは売りきれだった。サンドイッチと紅茶を頼む。紅茶はたっぷりのミルクと一緒にポットで出てきて、サンドイッチにはたくさんの具が入って、丁寧につくられている。うれしい。ウェイトレスの女の子が、「いつからここにいるの?」と話しかけてきた。「今朝シャノン空港に着いたばかりだよ」と言ったら少し驚いた様子だった。私がここに住んでいるように見えたのかな? 彼女は「私は3週間前にここに来たの」と言う。どこから来たのか聞くとドイツからだと言う。「えぇ?3週間前にドイツから来てもうここで働いているの?」驚いて私は言った。そんなふうに外国人がよその土地の普通の店で簡単に働けるものなんだろうか。「うん、秋からクリスマスにかけて、観光シーズンになるから、けっこう働く人を募集してるお店はあるのよ」当たり前のように彼女は言う。彼女は4ヶ月間働く予定だそうだ。考えてみるとここは EUなんだ。通貨統合も近いもんなぁ。日本にいるとわからないけれど、ほんとうにここでは国境は少しづつなくなってきているのかもしれない。彼女はなんだかとてもうれしそうに働いていた。

 その後、町の中にある遺跡を見に行った。美しいケルティック・クロスがある。ケルティック・クロス=ケルトの十字架は、キリスト以前からあったらしい。いつどのような理由で人々が十字架を聖なる象徴とするようになったかは、わかっていないらしい。ここの十字架は、ちゃんと確かめはしなかったがそれほど古いものではなかったようだが、それでも美しかった。

 ここで遺跡の説明をしていた青年も、言葉の訛りからして、まずアイルランド人ではなさそうだった。ドイツ人かスイス人かと思われた。こんな伝統的文化財の説明まで外国人にやらせてしまうんだなぁ、と感心した。日本でも、京都のお寺の案内を、タイの人がしたりするようになったら、おもしろいだろうな。

 私自身は古い建物のなかでなんとなく過去とのつながりを感じながら、ぼうっとひとときを過ごすだけで十分満足だったので、詳しい由来などは聞かずに済ませてしまった。

 

◆Doolinへ

 夕方になったので、観光案内所のおばさんとおねえさんにお礼を言って荷物を受け取って、バス停に戻る。Doolinに行くバスに乗る。夕方のバスは昼間のバスと違って、地元の人もたくさん乗っていた。ふたたび、まわりに木々と原っぱのほか何もない道を走る。道路が舗装されていないところも多く、ガタガタ揺れながら走る。Doolinに着くころにはあたりは真っ暗になっていた。”Doolin!”と言われて下ろされたところがまた、あたりに何も見えない。ホステルまでの道を運転手さんに聞く。「あそこの道をまっすぐ行けばある」と言われても、あそこに道があるのかどうかも暗くて見えない。とにかくバスを降りて歩く。もう一人、バックパックを背負って歩いている女の子がいた。よかった。

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2001年10月 ニューヨークにて

 ボストン滞在中、学校が休みの週末(2001年10月16日,17日)に、バスでニューヨークに行った。ボストンからバスだと4時間。バスでは親子づれの小さい女の子と隣り同士になった。アメリカに来てからよく、街で会った人に声をかけられたので、私もそれを真似して、”How are you?”と女の子に声をかけてみた。でも女の子ははにかんで笑って照れるだけだった。彼女は英語がわからないようだった。英語じゃない言葉で前の席の両親と言葉を交わしていた。後になって女の子は、休憩時間のとき売店で買ったフライドポテトを私に差し出してくれた。「もういいからね」と身振りをまじえて断るまでいくつもくれた。

 いつのまにか高速道路から出て、街の中を走っていた。外を見たら黒人の子どもたちや大人たちがゆったり歩いていて、壁にカラフルな色で絵や文字が書かれている建物がある。Harlemナントカと壁に書いてあった。ハーレム、ニューヨークだ!

 午後1時にニューヨークに着いた。AT教師の佐季子さんと、そのパートナーのマットが迎えに来てくれた。はじめてのニューヨーク。ボストンも同じように都会だけど、やはり街ごとに、住んでいる人たちの雰囲気がどことなく違う。私にはニューヨークの人のほうがゆったりとしている感じがした。休日のせいかもしれないけれど。太ったおばさんとか、鼻歌を歌って歩いている青年とか。

◆世界のどこであっても

 ちょうど、その日は戦争に反対する集会が公園ひらかれるとのことで、それに行くことにした。

 途中、ブレイクダンスを踊っている黒人のグループがいて、人だかりができていた。きれいな身のこなしが素敵だった。屋外アイススケートリンクの前も通った。まだセーターも必要ないくらいの気温だというのにスケートを楽しんでいる人たちがたくさん。リンクを凍らせるのが大変だろうな。

 少し遅れて会場の公園に着いたらソウルフルな歌声が聞こえてきた。トシ・レーガン(Toshi Reagan)だった。アフリカ系アメリカ人の女性ゴスペル・シンガーだ。スピーチをする人たち、歌う人たちが次々と続いた。私にはスピーチも詩のように聞こえた。主張は明快で私にも英語でもよくわかったのと同時に、地に足が着いている感じなのがよかった。望まないことが次々と起こっている状況のなかでも、ただ嘆いたり怒ったりするのではなく、希望を見ていっている人たちがいるということに勇気づけられた。

 メッセージの内容は人によってさまざまだったが、共通していたメッセージは、「そこが世界のどこであっても、殺戮は止めてほしい」ということだった。

 「メディアを信じるな」という言葉もよく聞かれた。

 アメリカでその時期、テレビがついているのを見ると(←自分ではつけなかったが)、私はなんというか、元気がそがれる感じがしていた。次々に出てくる話し手が興奮しながら、テロがいかに恐ろしいものであるかとか、次のテロはもっと恐ろしいものになるだろうとか、そしてそれを力で封じ込める方法について話すのを見るのは、いい気分がしなかった。

 でもメディアに出てくるアメリカ人がアメリカ人を代表していると思う必要はないんだなと思った。「メディアを信じるな」というメッセージが心にしみた。

(後でアメリカの友人にそんな話をしたら彼らは、「私は事件の後、テレビを見ないで、新聞を読むことにしている」とか、「僕はアメリカのテレビは見ないで、イギリスのBBCを見ることにした」などと、それぞれなりに工夫していた。)

 歌う人はそれぞれ、持ち歌を1曲だけ歌った。老齢のフォークシンガーもいた。歳を重ねても、全然枯れていない。(伝説の?)ロック歌手パティ・スミス( Patti Smith)も来た。パティ・スミスは歌う前のスピーチからして、声に力があった。そして「メディアを信じるな。この戦争に反対している人はアメリカでほんの数%かもしれないけど、それでもパワーは私たち、君たちにある!」と言って “People have the Power”という 80年代の自身の曲を歌詞をアレンジし直して歌った。生ギターの伴奏でひとこと、ひとこと、噛みしめながらといった感じに歌った。

 その場に集まってきている人たちは老若男女で、人種も黒人、白人、ラテン系、アジア系、中東系と、ニューヨークの街をそのまま縮めた感じだった。その日に集まったのは3~400人ぐらいだったか?「今日は小さめの集まりだったけどね、毎週末、こんなような集まりが、大きいのやら小さいのやら、ニューヨークのどこかしらで開かれているから、忙しくてね」と、マットは笑って言った。

◆鈴を持って歩く – War is Not the Answer

 スピーチと歌が終わると希望者は街を歩く。歩く人はちっちゃい銀の鈴を渡された。それを鳴らしながら歩くリズムに合わせて “War is Not the Answer”などとライミングしながら歩いた。ニューヨークの歩道は広いので数人で並んで列になって歩いても他の歩行者の邪魔にならない。道ばたでアクセサリーなどを売っている人や、お店の売り子さんのなかには、手を振ってくれる人もいた。一方、 “War! War!”とこちらをにらみ返して叫ぶ若者もいた。

 行き先はもう一つの公園だった。その公園の真ん中には、事件で行方不明になっている友達の写真やメッセージが、花とろうそくに彩られて飾られていた。行方不明の日本人の写真もあった。メッセージを見ていたら若者が声をかけてきた。「最近はこのメッセージや花が、毎日、朝になる前に公園課の人によって片付けられてしまうんだよ。公園課に対して片付けないように要請しようとしているんだけど、サインしてくれないか?」と言われ、サインした。

 

◆一日、ニューヨークの街を歩く

 次の日曜日は佐季子さんと、朝から夕方までニューヨークの街を歩いた。佐季子さんの家があるブルックリンから歩きはじめた。「ブルックリンはニューヨークのなかでも特にいろいろな人種が混ざり合って住んでいる地域なんだよ」と佐季子さんは教えてくれた。中近東の人たちの多いブロックも近かった。佐季子さんは、「ムスリムの人に対していやがらせがあるんじゃないかと心配したけど、見たところ変わりがないようでよかった」と言っていた。ただ、おいしいお茶を売っているという中東系の雑貨屋は日曜日のためか閉まっていて残念。

 佐季子さんとは、彼女が東京にいたときからATの先生として、先輩として、友人として、いろいろお世話になったり、話をしたりする機会は多かったが、こうやってニューヨークで話しながら歩くのは、人間はお互い変わらないはずなのに、どこか、とても新鮮だ。彼女は今、フィジカルセラピストの勉強もしていて、今ニューヨークの病院でインターン中だ。

 ブルックリン橋を歩いてマンハッタン島に渡った。橋から崩れたビルの残骸が見え、煙が燃えているのが見えはじめた。焦げるような臭いもしてきた(もう1ヶ月経つのに)。行けるところまで、崩れたビルの近くまで行ってみることにした。あまり近くには近寄れない。ぐるっと回って行ったら、遠くのほうで瓦礫の撤去作業が行われているのが見える場所があった。フェンスで囲ってあり、警察や軍の人が「ここからは入らないで」と言ったり、見に来た人の質問に答えたりしている。ビルの形は残っているけど残骸になってしまっているビルと、瓦礫の山と、煙で中まで真っ白になった車などがあり、白い埃のなかで手作業(!)で瓦礫を車に積み上げている人が遠くに見える。作業をしている人の健康は大丈夫だろうか?

 そこから地下鉄に乗って、2、3駅先で降りたら中華街だった。中華街では今まで見てきた光景とはうってかわって、生き生きと人々が行き来していた。何でもビジネスにしてしまう中国人(?)が、星条旗の柄のTシャツやバッジを売っていた。おいしくて安い中華料理を食べた。それからまたメインストリートに出た。ニューヨークの街にはマクドナルドやスターバックスなどのチェーン店が少ない。個人商店ががんばってる様子だった。そんな落ち着けるカフェのひとつでおいしいカプチーノを飲んだ。

 きのう集会があった公園にまた出た。どこかから歌声が聞こえてくる。行ってみたらレイドバックしたフォーク・ミュージックを演奏しているおじさん達と、ソウルフルに歌い上げる黒人の混ざった不思議なグループだった。「へぇ、おもしろい音楽だね」と思って聴いていると佐季子さんが、「あの黒人のシンガーはいつも、どんなグループが演奏していても、そこに来て混ざってハモって歌っちゃう人なんだよ」と教えてくれた。へぇ、もともとそのグループのメンバーじゃないのか。でも、全然違和感がない。そういう一味違った演奏をする個性的なグループなんだと思わせてしまうものがあった。歌うまいし・・・。そういうハプニングを平然と受け入れちゃうおじさん達の包容力も、すごいなと思った。ニューヨークの街には、どこかそういう力がある。そういうところがとても好きになった。見ていると黒人は、数曲歌って、おじさん達に笑って手を振って去っていった。

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2001年9月 ポートランド~2度目のボストン(前編)

▼9月11日のあとで

石井ゆり子 ボストンの河岸にて

 昨年2001年9月11日のアメリカでの事件は私にとってショックだった。テロもショックだったけれども、テロに対して軍事報復をすると決めたアメリカ政府の反応も、ショックだった。そのニュースを遠く日本でただ見ていて、世界の流れに対してなすすべもないまま、私はここにいて戦争にまきこまれていくのかと思って、無力感におそわれてしまっていた。

 それに、人がそんなふうに簡単に死んでしまうような状況で、アレクサンダー・テクニークは役に立たないなぁ、などと思ったりもした。もしアレクサンダー・テクニークが少しぐらい楽に動けたり、楽に物事ができるようになるためだけだったら、わざわざお金と時間をかけてやる意味があることなのだろうか、と思った。今回ボストンのトミー・トンプソンの学校に再び行くことにしたのは、アレクサンダー ・テクニークとは何の役に立つのだろう、ということを、もう一度捉え直したかったからでもある。

 それに、6月に行って以来友達になった学校の人たちが今何を考えて、どうしているのか、また実際に会って話したいと思った。飛行機を乗ることを考えると怖かったが、行くことにした。

 

▼ポートランド

 まず西海岸オレゴン州ポートランドに行き、プロセスワークセンターを訪ねた。ポートランドは緑が多く美しい、おどろくほど平和な街だった。富士山によく似た、 Mt.フッドという山が街を見下ろしている。道を歩いていたら通りすがる人々が、 “How are you?”と声をかけてくれるた。ポートランドは、アメリカのほかの都市と同じくいろんな人種のいろんな人々が住んでいる、オレゴン州一の都市なのだけど、和やかさという点では都市という感じがしなかった。ぼろを着た、失業者らしき男性も、”Good Morning”と私に声をかけてくれる。

 プロセスワークセンターでマックス・シュバックのクラス他3つのクラスに出席させてもらった。マックスのクラスはちょうど、大事な人や動物を亡くしたり、別れたときにどうするか、というようなことがテーマだった。印象に残ったのが、「人は、お互いに切り離されて存在することは、不可能だ」ということについての説明だった。いくら無視しようとしても、二度と会わなくても、死んでしまってさえ、その人は例えば心の中に生き続けたり、その人が存在していたことに他の人たちは影響され続ける・・・。

 

▼トミー・トンプソンとボストンで再会~個人レッスンを受ける

 ポートランドに1週間いて、それからボストンに行った。月曜日に、アレクサンダー・テクニーク教師、トミー・トンプソン(Tommy Thompson)の個人レッスンを受けた。私はトミーにこう質問した。「落ち込んでしまって鬱になってしまったとき、アレクサンダー ・テクニークを使ってどんなことができますか?」トミーはこう答えてくれた。「直接的には何もできないけど、情報を、少し違う受け取り方で受け取るために アレクサンダー・テクニークは役に立つよね。鬱のときっていうのはだいたい、たくさんの情報があるなかでとても限られた情報しか受け取らなくなってしまう。また、受け取った情報を、身体のなかの限られた場所にキープしてしまう」、そして私の背中に触れて、「ただ情報を受けとって、それが(体のなかで)動いていくのにまかせてごらん」と言いながらワークしてくれた。

 もうひとつ質問した。「今世界で起こっていることが気になっているんですが、どうすればいいのでしょう?」我ながらなんてバカな、答えようのない質問だろうと思ったけれど、トミーはけっこうまじめに、こう答えてくれた。「直接的には何もできないけど、ガンジーが言ったように『あなた自身がまず、自分が変えたいと思う世界になりなさい』ということだと思うよ。個人が『すぐに反応しない』ということを学ぶことによって、世界も少しづつ変わっていくよ。そう信じたいね」と、ちょっと笑ってトミーは言った。

 

▼トレーニングコース 懐かしい顔ぶれ バカな質問ばかりの私

 火曜日からはトミー・トンプソンの主催するAlexander Technique Center at Cambridge での、アレクサンダー・テクニーク教師養成コースのクラスに参加した。7月に会って以来の、懐かしい顔ぶれとの再会だ。

 テロ事件のニュースは数週間前のアメリカ時間の朝、ちょうどクラスが行われている最中に伝えられたそうだ。そういうこともあって、やはりみんなショックだったようだ。しかもテロに遭った飛行機がボストン発だったから。「でも学校に毎日来るということによってとても精神的に助けられている。みんなと会って、話ができて、お互いにワークできるから」と、生徒のひとりは言っていた。

 クラスはいつもと同じように、お互いにワークし合うことに一番時間を取って進んでいく。私はまた質問した。「エネルギーがなくて、人にワークなんかできない、という気分のときは、どうすればいいですか?」バカな質問ばかりだが、それがそのとき一番聞きたいことだった。トミーは言った。「人であることのいいことは、完璧でなくてもいいということだ。バックアップシステムが働いてくれるから、めちゃくちゃになってしまうことはないんだよ」。そして、「問題は、そういう感情をもったときに、その感情のなかにいるかわりに、それに反応してしまう、ということが起こることだ。そうではなくて、その感情を持ったまま、ワークしなさい。それがない”ふり”をすると、混乱したメッセージが伝わってしまう。

▼最初の反応

 それがはじまる前や、合間合間に、先生のトミーや、トミーの奥さんのジュディが話したり、お互いに話し合う時間がとられる。そんな時間のあるとき、「9月11日のニュースを聞いたときの、まず最初の自分の反応はどうだったか」ということを分かち合う時間が持たれた。「あまり実感がわかなかった」「理解できなかった」という人もいれば「怖かった」という人もいた。生徒のなかには、反応について聞かれても、意見や見解を答えようとする人もいた。それでも筋肉の緊張が体の反応に残る。まずそれを認識できるところに戻ってみよう、と、トミーはハンズオンを使ってその人にワークをはじめた。そこからはじめて、そういう筋肉の緊張をもっと広い気づきのなかに解放する、というワークになった。恐怖というのは多くの場合、認識したくないものだが、恐怖を認識することからはじめることで、そこからまた動いていけるようになっていく。そうして動き出した動きや考えは、恐怖に基づいた動きや考えとは違いはじめている。ワークされていた生徒の緊張が開放されていくのに立ち合って、グループ全体の場の雰囲気も流れはじめた気がした。

 感情も、体の収縮も、それを変えようとする必要はない。感情の動きも体の収縮も必要があって起こっていることで、それをきちんと経験すれば、変化は自然に起こっていく、というのは、トミーが繰り返し言っていたことだった。

(つづく)

ボストンでのアレクサンダー・テクニーク:カテゴリー一覧

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危機解決のための3ページのレシピ  - アメリカ同時多発テロ事件に関して –

 プロセス指向心理学(プロセスワーク)の創始者、Arnold MindellとAmy Mindell(米国オレゴン州在住)から送られた、今回のテロ事件に関連して葛藤解決のためのレシピです。

 アーニー&エイミー・ミンデルは、個人のための心理療法と並行して、人種間、マイノリティ・グループ間etc.の葛藤解決のためのグループワークを続けています。 “Sitting in the fire – Large group transformation using conflict and diversity(火のなかに座る – 葛藤と多様性を変容のために使う)という本も出版しています。

 ※参考サイト:Process Work Center of Portland 


危機解決のための3ページのレシピ

エイミー+アーニー・ミンデル 2001年9月11日
(訳責:桑原香苗)

-そういうものとして使うには一般的過ぎるけれど、願わくば考える刺激として十分に幅広くあらんことを-

I. 現在の状況からいかに始めるか
II. いかに権威に働きかけるか
III. より大きな到達目標
IV. テロリストの本質
V. 犠牲者の本質
VI. いかにすべてを一つにしていくか (How to bring it all together)


I. 現在の状況からいかに始めるか(悲嘆、怒り、復讐…)

a) 苦痛と傷とがあることを認め、また、深く悲しむこと、悲しみを感じることには時間がかかることを覚えておこう。復讐という考えは、苦痛を感じることへのエッジであるかも知れない。その時々の状況を扱いつつも、覚えておくべきことは、すべての人々にとってのよい生活を長期的展望で見ること、全体的な見方である。怒っている人は誰でも、いずれ危険になる可能性があることを認めよう。ゆっくりおだやかに進んでいこう。注意すべき、また忘れてはならないことは、自分の外側にいる(正当な理由のない攻撃を行う)攻撃者(aggressor)は常に、自分を鏡に映せばどのように見えるかというイメージだということだ。現在の、あるいはあなたの人生のある時点での。

b) 攻撃という状況は、あなたの全体的な自己、つまり周囲の他者および宇宙の本質を見出すための最高の挑戦である。

c) もしできたら、自分の中に、もっとも洞察に満ちたリーダーでありかつ武道家であるような人を見つけよう。持てる認識力(awareness)のすべてを、ものごとを抑圧するのでなくそれに従うことに使い、自分がテロリストの攻撃自体になることができるような人、ものごとをめぐるすべての立場を自分のうちに、葛藤を起こすことなく感じ取れるような人を。 

d) 内なる世界は同時に外なる世界でもあることを覚えておくために、あなたが抑圧された時のこと、その結果として怒れるテロリストの役割を取らざるを得なくなった時のことを思い出そう。また、あなたが同じ事を他の人たちにした時のことも思い出そう。どのように彼らを抑圧し、また言っていることを聞かなかったか、その結果として彼らがどのようにあなたに怒ったかを。あなた自身が「テロリスト」になったり他の人がそうなるように仕向けたりした瞬間を思い出せるなら、あなたは次のステップに進む準備ができている。そんな瞬間が思い出せない場合は、あなたが行うことはすべて、しっかりと地に足をつけたものにならないし、あまりうまく働かないだろう。

II.いかに「権威」に働きかけるか

覚えておいてほしいことは、ここまでのaからdの経験を意識的に行ってきただけで、もうあなたは権威を持った存在であるということだ。他の人たちはみな、彼らが話しているのは彼ら自身(同様に他者でもある)のことだなどとは気づいていない。世間で権威を持った人たちはおそらく、いかなる気づき(awareness)のトレーニングも受けたことがないかもしれないのだ。心のこもったやり方で、彼らに伝えよう。私たちがやろうとしていることは、簡潔かつ洞察に富み、素早くかつ持続可能なことではあるが、一時的な感情よりも感覚的認識(sensing)を多く含むことになるだろう、と。権威ある立場の人たちに対して用いるべき感情に基づいたスキルとは、彼らのジレンマへの感謝の表明(appreciation)だ。彼らは公的生活で板ばさみにあっている。復讐を求める人たちと愛に関心を持つ人たちの両方を満足させなければならないのだ。


以下のことを、彼らがすでに計画していることへの付け加えとして提案してみよう。彼らの方法に反対したり放棄させたりするものとしてではなく。覚えておいてほしい、世の主流派の考え方とは、あなたがさしたる自覚(awareness)なしに何かに反応している時のあなた自身の考え方なのだ。だから、あらゆることを共感(compassion)を持って行おう。では、次のステップに進もう。

III. より大きな到達目標

心の奥深く、また夜の静けさの奥深くで、あなたは大きな堂々たるさまざまなビジョンを持ち、人類および地球の未来を切望している。それらの大きなビジョンを今、はっきり形にしてみよう。あなたが行っているあらゆることにおいて、どのようにそれをモデルとして形に表すことができるか考えてみよう。そのビジョンを使い、それを形に表すところを想像しよう。モデルがなくては、ビジョンはうまく働かないのだ。

もし必要なら、そのビジョンに以下のことを付け加えよう。自然が我々を動かすのだ。私たちの仕事は、自然の動きを意識化し、役立てることだ。夢や感情は起こるものだ。私たちの仕事は、夢や感情が私たち自身や他のすべてのもの、あらゆる有情のもの(sentient being)の生命を豊かにするのを助けることだ。これをあなたのビジョンに「付け加える」ことが意味するのは、生きることそれ自体が聖なるできごとだ、ということだ。たとえ最初は生きることが不可能に思える場合でも。生きることは、あなたの最大限の能力と知恵が求められる「道場」でありアシュラムであり寺院なのだ。究極の状況では、あなたの最上の部分以外は必要とされない。それは機会なのだ。破滅であるだけではない。この見方を踏まえてこそ、次のステップに進むことができる。

IV. テロリストの本質

私たちの多くにとって最大の問題は、テロリストのエネルギーと動機の本質を理解することだろう。あなたや私や他の誰でもが傷つけることや復讐を望み、傷つく人たちを思いやることのない怒れるテロリストになる時は、我々人間の誰もがそれぞれに経験したことのある何かを明らかにして見せているのだ。ポイントは、テロリストはあなたにとって未知のものではない、ということだ。彼女または彼は、あなたが傷ついた意識状態にいる時になるものなのだ。

テロリストのある一面は自由の闘士であり、より新しい、よりよい、その人にとっての正義の世界を求めている。また別の一面は精神的求道者であり、生命自体よりも偉大な目標、つまり自分の生命やそれを犠牲にすることを取るに足らないものとする何ものかを見出した人だ。もうひとつの側面は、恐怖させるもの(terror)それ自体である。ずっと抑圧され続けて憤怒に変容してしまった恐れ(fear)だ。恐怖(terror)と怒りはたいへんに近い。恐怖(terror)は全能の攻撃者(aggressor)に傷つけられる恐れ(fear)によっており、怒りは、復讐の甘い感情と、犠牲者であり続ける代わりに意図せずに攻撃者と化すことの陶酔とが、ない混ざったところに由来している。

ある意味でテロリストは、その人がもっとも憎むものの鏡像と化しているのだ。彼女または彼は絶望の産物であり、そのいくぶんかは、その人が何のために戦っているのか他の誰もが誤解していることによって作り出されたものだ。では次のステップへ行こう。

V. 「犠牲者」の本質

犠牲者(例えばアメリカ合衆国)は、テロリストの心の中では攻撃者(aggressor:訳注:正当な理由なく攻撃を行った、という含みがある)である。「犠牲者」とは、攻撃されたことがあって自分を犠牲者だと思っている(自己同一化している)人のことである。さて、これから私が言うことは、共感(compassion)を持って理解していただく必要がある。犠牲者とは、自分が犠牲者であること(victimhood)を、テロリズムを「作り出す」ことにおける自分の役割に気づかないでいる罪悪感を和らげるのに使い、そこから動かない人のことである。犠牲者は、ひとつの単純な意味で、攻撃に関して有罪である。その人はずっと、テロリストと対面してその不幸を聞くことを望まず、あるいはできずに来たのだ。まだ不満を示すシグナルが穏やかで、少なくとも節度があって破壊的ではなかったころでさえ。ずっと無視し、抑圧し、支配し、自分は他の人たちより優れていると感じつづけることは、もっとたくさんの規則や法律や警察や軍隊、最終的には戦争を作り出す。これは、いわゆる犠牲者に対する批判ではない。実際には、無意識を共感的に認め理解することであり、目覚めを促し支えるちょっとした刺激がこれに続く。何ごとも、青天の霹靂として起こったためしはない。雲は何日も、何ヶ月も、何十年も、場合によっては何世紀もそこにあったのだが、晴れだというふりをみんながしていたのだ。

犠牲者についてのこのような知恵はすべて、たいていは後の祭りとしてしか起こらない。犠牲者を扱う上で私たちは、まず最初に、無実の傍観者だというそのアイデンティティを受け入れねばならない。次に私たちは、テロリストに復讐し破滅させようとする犠牲者の破壊的な意図を理解する用意がなくてはならない。その一方的さ(one-sidedness)に対して共感を持てた後にしか、次のステップには進めないのだ。あなたが「犠牲者」(あるいはテロリスト)の狂ったような攻撃性に精神的な優越感を感じている限り、自分自身では何もするべきではない。あなたはいまだに助けを必要としており、あなた自身が戦争であってさらなる戦争を付け加えるだけであり、問題の助けにはなれない。
今、次のステップに進んでくれるあなたに感謝する。

VI. いかにすべてを一つにしていくか

もしあなた自身が軍隊に直接影響力を及ぼしたり、平和交渉のテーブルについたり、知事や大統領になることができなくても、自分の仲間内や祈りの場で、電子メールや地元新聞で声を上げることや、隣近所の人たちと話すことはできる。わかってほしいのは、戦争はいたるところにあり、特定の戦場だけにあるのではないということだ。恐怖(terror)はあなたがそれを考えるときはいつでもある。あなたが自分の内面で、また外面で行うワークは、あらゆる形態の「ワールドワーク」であり、全体的な場に触れるものである。全体的な場とは、2、3の、あるいは多くの個人に直接影響を与えるのみならず、非局在性の量子波(quantum waves of non-locality)によってあらゆる人々に間接的に影響を与えるものである。

自分の内なる中心となるところを、動きの最中にある静けさの源として見出してから、次のことを試してみてほしい。テロリストと犠牲者についてのあなたの理解を使って、交互にそれぞれの立場になって話し、感じ取り、表現してみてほしい。一人で行う場合は、これはインナーワークである。他の人と行う場合は、グループワークになる。TVでやれば、ワールドワークである。テロリストとして、あなたの憎しみを、そこに至る経緯(history)を話してほしい。自分の個人的な生命よりも大切な、そのために戦っていることについて話してほしい。単に演じることはしないでほしい。これはロールプレイではない。これは、あなたの体を動かす、深く透徹したダンスなのだ。シャーマンになり、この宇宙に働く諸力の本質になりきってみてほしい。テロリストの体を、あたかも彼女/彼の口から出る言葉が骨の髄から湧いてくるものであるかのように感じてみてほしい。深みにおりて、あなたがこれまでにやって来たいかなることも越えたところまで行ってみよう。
あなたの認識力(awareness)を使い、あなたの感情を無限に広げてみよう。それが自然に終息した感じがしたら、立場を変えよう。

苦しめられた「犠牲者」として話してみよう。報復について警告しよう。あなたが個人的に、また社会的に持っている特権について、そして平和で静かな暖かい人間関係を望むことについて、どんなものか話してほしい。それから、深みに入っていこう。もしあなたが合衆国を演じるなら、ニューヨークのエッセンスをつかんでみてほしい。エンパイヤ・ステート・ビルだけではなく、自由の女神と呼ばれる民主主義のスピリットが誇らかに掲げる灯明のエッセンスを。忘れないでほしい。あなた自身が憩いの家(home)であり、抑圧されてきた人々に開かれた扉なのだ。自分が常にその夢を生きて来られたわけではないのを認めた上で、思い出そう。あなたの一番大きなビジョンを。民主主義を切に求める努力を。あなたの心の根っこまでよく見て、2億5千万人のために話そう。彼らを一つにまとめるかすかな希望、光のフィラメントについて。それは彼らを、時には無意識の怪物にもするが、可能性としては、自分を攻撃した人たちをも含めたあらゆることを受け入れる用意のある開かれた心にするものなのだ。もしあなたがこれを、あなた自身に向かって、他の人たちに向かって、新聞やTVに向かって、嘘偽りなく言うことができるなら、次へ進むべき時だ。

素晴らしい、予測できないようなことが起こるだろう。この会話を、長くても2時間続けたら、あなたの内面および外面にいるすべてのスピリットにさよならを言って手放し、家に帰ってすべて終わったと考えよう。でもやることはもっとあるのだ。ここにあるのは、自由と生命について歌われるべき歌のひとつであり、この世界的ドラマのエッセンスを繰り返し表現(recapitulate)したがっているダンスと芝居のひとつであり、驚く私たちの目前で繰り広げられた夢のような多様な現実である。しかし夢見られるべき夢、ワークすべき未来はたくさんあるのだ。挑戦してくれることに、感謝する。



※ご参考までに訳注

著者
アーノルド・ミンデル博士: プロセスワーク(プロセス指向心理学)の創始者。
エイミー・ミンデル博士:A.ミンデル博士のパートナーおよび共同研究者。
世界各地で夫妻共同のワークショップを行っている。日本でも2002年5月にワークショップが予定されている。
ワールドワーク
プロセスワークで行っている、世界に普遍的なテーマに取り組むグループワークの方法。この文中では、世界に対して働きかけるワークという意味が強い。
非局在性の量子波
量子力学用語。量子の世界では、量子は一点のみに存在するとは言えず、ある広がりをもった場に存在する可能性または波のようなものとして考えられる(うーん、違っていたらごめんなさい) 。そのような量子波の性質を通じて、私たち個人も場としての世界全体に関わり、影響を与えるとミンデルは考えている(アナロジーとしてだがちょっとだけ本気で)。
インナーワーク
自分の内面に何があるかに気づき、深めていく方法。瞑想などを考えて頂けると近い(かも知れない)。
2億五千万人
アメリカ合衆国の人口。
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「リトル・ダンサー」

映画「リトル・ダンサー」(原題 “Billy Elliot” イギリス映画)を観ました。 炭坑ストの頃のイギリスの炭坑の町に住んでる、ダンスが好きな男の子ビリーのお話です。「ダンスをしたい」っていう、すごい単純な欲求っていうのに、どうやって忠実でいられるかっていうことが、気持ち良く描かれてはげまされました。同時に、ダンスをしたいなんて、ふつう男の子が(とくに炭坑の町では)あんまり思わないようなことを思っちゃうような人っていうのも、やっぱりそこの社会に必要なんだ、ってことを、映画は言ってる気がしました。ひとりの男の子が「踊りたい!」という純粋な夢を、まわりの人たちといろいろに関係を持ちながら少しづつ実現させていく。最初は、本人もまわりの人たちも、「無理だよ。男の子がダンスなんて。」と信じているんだけどね。で、ビリーが夢をだんだん実現させていく過程のなかで、ビリーの家族や友達など、まわりの人も少しづつ変わっていく。

 ビリーのクラスメートで、女装が好きで男の子が好きなゲイ(トランスジェンダー?)の男の子(マイケル)がいるんだけど、彼とビリーとのやりとりのなかで、ビリーが「ぼくはダンスが好きだからと言ってホモじゃないんだ」とかいいつつも、無言で、社会の多数派とはちがった生き方を求めているマイケルを励ましている(マイケルもビリーを応援してる)。励ましあうのに同じ夢を持っている必要はなくて、同じ考えを持ってる必要もなくて、一人ひとりが社会のなかで、その人のものでしかないその人の夢を、お互いと、社会とかかわりを持ちながら、それぞれが実現させようとすることによって、社会がほんの少しづつ変わっていく、そういう過程が大事にできたらいいな、と、そんなことについて私は考えました。

 私がアレクサンダー・テクニークが好きなのも、アレクサンダー・テクニークを使って、その人個人から出てくるものを大切にすることを学べて、なおかつ、それが個人のなかだけで完結しちゃうわけじゃない、というところです。自分から出てくるものを大切にすることと、まわりから来る刺激にどう応えていくか、ということが、切り離されることはできない、そういうことに気づけるところが好きです。社会とどう関わりながら、どう自分を生きていくか、ということにとても関わることだと思います。

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