「アレクサンダー・テクニーク」カテゴリーアーカイブ

リカさんと出会い、教え方の違いについて考える

えー、このブログは日付をさかのぼって投稿してみました。

イスラエルからリカ・コーエンさんというアレクサンダー・テクニックの先生が来日して、ワークを受けました。リカさんは2年前まではアメリカのニューヨークに住んでいて、ニューヨークの友人や、私がボストンで習ったトミー・トンプソン氏などから、「こわいけどいい先生だよ」などと、いろいろ噂を聴いていたので楽しみにしていました。67歳になる先生です。

受けてみて、とても興味深かったです。アレクサンダー・テクニックの先生はけっこう個性的な人が多いし、また100年の歴史になるテクニックなので、原理はシンプルなのですが、人によってその解釈の仕方、受け止め方、やりかたなどがけっこう多様なのです。
リカさんのワークは今まで受けたどの人のワークとも違う感じでした。
リカさんはマクドナルドさんという人に習った人なので、「マクドナルド派」と言われたりもするのですが、
いわゆるマクドナルド派の他の先生とくらべても、ユニークな感じがしました。

でも同時に、究極的にはいろんな先生ともやっぱり共通するなあ、とも思いました。

まだ私自身体験が言葉にまとまっていないのですが、ゆっくり消化していきたいと思います。

でも言葉にはまとまらなくても、翌日からのレッスンが、少し、より明快にできるようになった気がして、やはり影響をあたえてくれる先生に出会えるというのはうれしいです。

————
ワークの内容とは少しずれますが、
リカさんの人となりが、なかなか魅力的でした。
「強烈な人」「こわい人」「だけどかわいい人」などの前評判を聞いていて、
たしかにそうなのだけど、それがあいまって、魅力的な人でした。

リカさんは自分の考えをとてもはっきりと表現する。
「アレクサンダーテクニックというのは、こういうものなのだ」
と、それが他の人の考えと相容れなくても、はっきり言う。

なんだけど、自分の考えと違う人を、避けたり排除したり、ばかにしたりしない
人だ。ということを、強く感じました。

だから、ワーク中はリカさんのやりかたでやらなくちゃいけないけど、
自分は自分のままでいていい、という妙な安心感がありました。

もしかしたら、リカさんがイスラエルの人だということも関係してるのでしょう
か?
「宗教だっていろいろあるのだから、ワークに関する考え方が人によって違うの
もあたりまえなのよ。仲良しの○○(AT教師)とも、毎日のようにお互いにワークしあっているけれど、彼だって私と同じようには考えない。それでいいのよ。」
というようなことを言われてました。

それで、かなり違うワークをするトミー・トンプソンとも親友なのだなあ。

それから、「私に習ったからといって、私と同じように教えようとする必要はないのよ。違う人間なんだから、そんなこと、できないし」と、言われていました。
なんだか、そういうふうに言ってくれる先生の存在は、うれしいです。

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ニューヨークから先生が来日!(2)

きのうはアン・ワックスマンさんのレッスンを受けたおかげで、だいぶ、ぼーっとした一日でしたが、おかげで今日はすっきりと、早朝に目覚めてしまいました。ひさしぶりの早起きですが、さわやかです。

きのうのレッスンは、同僚教師の和子さんと一緒に受けました。お互いに教師役/生徒役になって、ワークするところを見てもらおうと思っていたのですが、結局そこまでに至りませんでした。それぞれ自身のワークをしてもらって時間になってしまいました。

アレクサンダーテクニックは「自分自身の使い方」を観るワークですが、
教えることにとっても、
教師自身の「使い方」が、生徒さんに教えるときの鍵になるのです。
教師自身が自分を固めているままだと、生徒も緊張から解放できません。
私自身が「やりすぎ」から離れていくプロセスが、生徒さんに伝わるのです。

自分でそんなにやりすぎていないつもりでも、やりすぎているんだなあ、
ということを、ひさしぶりにレッスンを受けて、あらためて感じてしまいました。

今日もレッスンを受けるので、今日こそはワークするところを観てもらえるかな?

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ニューヨークから先生が来日!

ニューヨークから、アン・ワックスマンというアレクサンダーテクニックの先生が来日しています。彼女はもう20年教えているベテラン先生です。
来日は、3回目ですが、前の来日は9年ほど前でした。

今朝、彼女のレッスンを受けてきました。
なので、ぼーっとしています。

アレクサンダーテクニックのレッスン受けたはじめの生徒さんがよく、「眠くなる」とか「ぼーっとしてしまう」と言うことがありますが、それを、ひさしぶりに体験しています。

アンさんから習ったことについては、できれば後でもう少し書きたいです。

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「教師」という立場

このブログは直接的にアレクサンダー・テクニックについて書くということとは、少し違う方向、でもアレクサンダー・テクニックとつながりはある方向、に展開していっています。
ひとりよがりでなければいいのですが。。
よろしければもう少しつきあってください。

きのう、私にとってアレクサンダー・テクニックを教えてる意味について、
次のようなことを書きました。

誰が何をいおうと、どんな情報があろうと、自分の身体を自分で信頼できる人、
自分の感受性を自分で信じられる人、自分で考えて自分で行動できる、
そんな個性的な大人に、みんながそれぞれなれれば、世の中もっと楽しくなる。

そういう人を育てる教師になるために、考えないといけないなぁと思うのが、
「教師」っていう立場についてです。

「教師」っていう立場は、私が好むと好まざるとにかかわらず、
「生徒」という立場からみて「上」に立ってしまう、ということです。

私なんかはそんなカンロクがあるタイプでもないし、声も大きくないし、
しゃべるのも下手だし、
ワークショップのオープニングではいまだにいつもオロオロしてしまうし、
どっちにしてもそんな「上」に立てるタイプじゃないし、、
と、思ってしまうことも多いのですが、
そんなことに関係なく「教師」として人に接する以上、
「上」に立ってしまうのです。

たとえば教師であるときの私が言うことは、
ほんとはそうじゃないかもしれなくても、正しいことに聞こえたり、とか、
ほかにもいろいろあると思います。

私がもう一つ学んでいるプロセスワークというのがあるのですが、
そのなかでの考え方で、教えるということを考えるときに大変役に立った考え方があります。
プロセスワークでは、そうやって立場によってできてしまう上下関係のことを、
「ランク」といいます。
(逆には生徒の立場は生徒の立場の「強み」があるから、
教師と生徒の両方に、お互いにランクがある、なんて言います。)

そして、
大事なことは、ランクをなくそうとすることではない
ランクは、なくならない
大事なことは、ランクがあるってことを、自覚することだ

と、言います。

このアイデアを聞いたときには、ほんとに、目からうろこでした。

それまでは私は、
「そんな『上』に立つのなんて私はキライだから、
私はそういうタイプの先生にはならないよ」
という態度だったのです。
でもそうすると、自分では自覚なしに上に立っていて、
自分では自覚なしに人になにかを押し付けているタチの悪い人になりやすいんですよね。
そして、そのことによって相手(この場合では生徒さん)が悩んでいても、
「それは、その人の問題だ」という結論にしてしまったりしてしまうのです。

それぐらいなら、自覚的にしっかり「上」に立って、
(別にえらそうにする必要があるという意味ではなくて)
その立場としてどうやって自分と相手を尊重して、信頼できる関係をつくれるか
ということを考えたほうがいい
ということです。

そういうことによってこそ、「教師」も「生徒」も、お互い成長できて、
冒頭に書いたような

誰が何をいおうと、どんな情報があろうと、自分の身体を自分で信頼できる人、
自分の感受性を自分で信じられる人、自分で考えて自分で行動できる、
そんな個性的な大人

に、みんなでなっていけるようになる、と、思っています。

たいへん難しいことですが、
このことについては考えつづけていきたいと思っています。

追伸)
プロセスワーク関係者の方、これを見ていたら、「ランク」について補足とか、
参考本の紹介とか、していただければ、たいへんうれしいかも?

また「セルフラーニング研究所」の平井雷太さんの考え方にも、
たいへん参考になり考えさせられるものがあります。

本の玉手箱
「新・子育て廃業宣言」
セルフラーニングシステム」とは、一言で言うと”教えない教育”である。

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私がアレクサンダー・テクニックを教えてる理由

『キラーブランドの始まりは、路地裏のお店から』という本を読んで、
自分がアレクサンダー・テクニックを教えてる意味について考えました。

この本は東海地方の若者男子に大人気のメガネブランドのオーナーが書いた本で、自分の会社や商品を、どう「ブランディング/ブランド化」したかについての本です。
東海地方とか若者男子のファッションとか「ブランド化」とか、私には関係ない世界だなと思ったのですが評判になってる本みたいだったので読んでみたら、
すごくおもしろかったし私にもとても関係があった!

「ブランディング」とは、「らしさ」を追及することだった。

続きを読む 私がアレクサンダー・テクニックを教えてる理由

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ルシア・ウォーカー・インタビュー2003年5月8日 東京にて はじめに

ルシア・ウォーカーさんと。photo by Tomoko Uehara ルシア・ウォーカー(Lucia Walker)さんに私が最初に会ったのは、教師養成コースでトレーニングを受けていた最後の年、卒業する少し前の1999年の6月でした。そのとき彼女は始めて来日して、3週間、私たちのコースのゲストの教師として来られました。評判ではルシアは、ご両親もエリザベスとディックというアレクサンダー・テクニークの教師で、しかもそのご両親はF.M.アレクサンダーから直接習った先生のうちの数少ない生き残りということで、「なかなかすごい人らしい」という評判でした。

 会ってみたら、おどろくほど「ふつうの人」というか、等身大の人というか、生徒たちのなかに紛れてしまうほど、自分を特別に見せない人でした。しかし3週間ほぼ毎日会ううちに、彼女が教えるときとても明確な意図を持っていて、それを、その人にそのとき必要なだけ明確に伝えてくれるすばらしい先生だということがわかってきました。。そしてそれを、特別なものとして伝えるのではなく、ひとりひとりが使えるものとして教えてくれる先生でした。

 ルシアは、コンタクト・インプロビゼーションというダンスを踊り教えるダンサー/ダンス教師でもあります。彼女はその経験も生かして、瞬間瞬間に気づきをもつことと、動きの関係についての、実践的な教え方をしてくれます。

 最初に来日してから、ルシアがほぼ毎年来日してくれるようになったのはありがたいことです。今回、2003年の5月、ATA アレクサンダー・アソシエイツの招きで来日したとき、私の教室にも来ていただき、近くの大塚公園でインタビューもすることができました。インタビューは、通訳のヘルプを兼ねたほかの生徒二人と一緒に木のテーブルを囲みながら、なごやかな雰囲気で行われました。


・その1

「人はアレクサンダー・テクニークについて語るとき、よく『体をとおして全体に働きかけるでしょ』と言ったりするよね。でも私たちが学ぶなかでは『肝心なのは考えだ』とたたきこまれるのよね。さていったいアレクサンダーの入り口はどっちなのかしら?体なのかしら?それとも考えなのかしら?」

・その2

「私は私がやっている教え方が決してだた一つの教え方だとは思っていないし、一番いい教え方だとも思っていないの。それはただ、私がやっているやり方なの。」

・その3

「学び始めた頃、もし自分の癖を取り去ってしまったら、個性というものはなくなってしまうのではないかと、少し心配だったの。でも学ぶにつれわかったことは、よけいなものを取り去るにつれて、もっとはっきりと力強くその人が現われてくるということだった。」

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ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その1

 ールシアはどういうきっかけでアレクサンダー・テクニークを学びはじめたのですか?

 思い出してみるわね。一番の理由は、もっと自由に動きたいということだったと思う。ちょうど、ほぼ同じころに、ダンスに興味を持ちはじめていたから。最終的に、あるダンスのフォームを教わった。それもまた、よい使い方を見るということだった。がんばって動くというよりは、動きのほうへ解放されていくということだった。そして、太極拳というものがあった。太極拳は、もっとエネルギー的な次元の動きだった。それで太極拳も習ってみた。何かの拍子に、ほんとうに違う状態に入ってしまった感じがしたときのことを今でも思い出せる。いつもよりずっと軽くて、満ちていて、ずっとパワフルな感じだった。それまでアレクサンダー・テクニークのことをいくらかは知っていたけど、それほどには知らなかった。でも、そのとき突然理解したの、たぶんアレクサンダー・テクニークがめざすものもこういう状態なんじゃないかな、って。それで急に興味をもちはじめたの。もしこういう状態にもっと楽に到達できたら、と思ってね。

 もうひとつ、動きに興味をもちはじめる前に、アレクサンダー・テクニークの教師のトレーニングをやってみようかなと思ったことがあったの。何をしたいのか自分で本当にわかっていたわけではないんだけれど、私は前から教育に興味があって、児童教育のトレーニングを受けていたことがあるの。でもやってみて、あまり私がやりたいことではない感じがした。それでも学びに関することには、いつも興味を持っていた。そして アレクサンダー・テクニークが、とてもおもしろい学びの方法に見えたの。

 ー学びつづける過程で、学びつづける理由は変わりましたか?

 変わったともいえるし、変わらないともいえるわね。たぶん理由の説明のしかたが変わっただけなんじゃないかな。これは教えるときによく話すことなんだけれど、どうしたら人間になれるか、なんていうことをよく話すの。人間であるということは、ほんとうにかけがえのないことだけど、ある意味とても私たちにとって難しいことなのよね。だからどうしたら全体的な人間になれるか、そして生きている意味をまっとうできるか、というようなこと。まぁ、それがどんなことか、少しでもわかりかけることができたらね。

 そして私は教えるプロセスのなかで、その人たちが自分自身をより全体的に表現するようになっていくのが見えるのが好きなの。これが一番私が好きなことかもしれない。私自身も自分自身をより全体的に表現するようになっているのを感じて、同時にほかの人たちも同じようにそうなっていくのを見るのが好きなの。

 ー個人的な経験として、アレクサンダー・テクニークを学ぶことが役に立ったと思われることはありますか?

 ええ。まず間違いなく、踊り方を学ぶ助けにはなったわね。それに、なぜ自分が踊りたいかを理解する手助けにもなった。そして、ああ、とてもたくさんのことがあるわね。自分がもっと幸せになる助けにもなったと思う。でも難しいけれどね。長い時間のなかで、もしそれがなかったらどうだったかなんてこと、わからないもの。でも確かにアレクサンダー・テクニークの原理は自分が人生に興味を持ち続ける方法をあたえてくれたと思う。それはつまり、知覚的な喜びということだと思う。何でも起こっていることのなかにある喜びを感じられるということだと思う。

 ールシアはアレクサンダー・テクニークのほかにもいろいろなことをやっていると思うんだけれど、ルシアにとって、あなたがやっているほかのことと アレクサンダー・テクニークはどう関係がありますか?

 私はアレクサンダー・テクニークのほかにたくさんのことをやっているからね。

 ーそれはアレクサンダー・テクニークだけでは求めているものが得られなかったから?

 どうかしら。(考える)でも、そうね。でもそういうものをはじめからアレクサンダー・テクニークに求めていたわけでもないし。アレクサンダー・テクニークが十分でない、というふうには思わなかったよ。むしろアレクサンダー・テクニークが、ほかの勉強などにもっと興味を持たせてくれたり、学べるようにしてくれたのよね。

 ダンスやコンタクト・インプロビゼーションは私にとって、とくにコンタクト・インプロビゼーションは、アレクサンダー・テクニークとお互いにサポートしあっていると思う。どちらかを学んでいなくて、どちらか一方だけを学んでいたということを、想像することができないもの。

 個人的なレベルでは、中国医学、とくにファイブ・エレメント・アキュパンクチャー(五行鍼灸)という、イギリスで発展した鍼灸の形態があるんだけれど、それに私は助けられている。どんなにこれに私が助けられているか、と、いつも思う。そしてそれはアレクサンダー・テクニークにはないようなやり方なのよね。でもその一方で、この方法にいつも私はフラストレーションも同時に感じるの。これは治療であって、介在者が必要だというところでね。何かやってくれる人が必要だということになるから。それで、自分にとってどれだけアレクサンダー・テクニークのありようが大事かということに気づかされた。 アレクサンダー・テクニークも、たしかにだれかほかの人との交流のなかで学ぶのだけれど、そのなかで、自分で自分のために何かを発見しているということがわかるからね。

 でもおもしろいと思ったのは、治療を受けはじめたころ、治療してくれた人~彼女はアレクサンダー・テクニークを知っている人なのだけど~彼女が言うには、エネルギーも、流れていき方の習慣を持っているんだって。そしてその習慣から解放されるためにはサポートが必要なんだそうです。私はこの鍼灸士との関わりからは、すでに知っていたことや新しいことや、いろいろなことをたくさん学んだ。

 もうひとつ、個人的にも、教えることに関しても、とても自分の支えになっていて、同時にアレクサンダー・テクニークがそれを学ぶための大きな支えになっているとも言えるものがあるの。それは、 「NVC-非暴力コミュニケーション」と言われている方法です。これは、とても、”今の瞬間”に関することなの。これは、コミュニケーションのことでもあるし、違いをあつかうためのことでもあるんだけれど、同時に、まずは人とつながることであって、自分自身とつながることなの。これをアレクサンダー・テクニークと一緒に学ぶことは、ほんとうに私自身に役立っている。言語的コミュニケーションにおける習慣にものすごく気づかされるよ。

 ーそれは言い表し方にかんするモデルなんですか?

 ある意味ではそうね。でも、学びつづけ、実践しつづけるにつれて、たしかに言葉のことではあるんだけれど、このモデルでは、「評価とレッテルというものが、私たちの言葉における暴力だ」と言っている。よい評価であってもね。誰かを何か固定したものにおさめてしまうことになるから。でも、これは言葉というよりむしろ態度に関することなの。自分が自分に何をしているか、話したりコミュニケートするときに、どういう意図を持っているかとかいうことなの。学びつづけるにつれて、だんだんそういうことがわかってきた。それで、少し楽になった。だって言葉のパターンを変えるのは、すごく難しいからね(笑)。実際、言葉の背後にほんとうには何があるかということを見ることができるようになってきたら、起こることも変わってくる。

 そして、ダンスは、ずっと教えてきて、今でも教えているし、自分でも踊っている。それがとても助けになっている。

 鍼もNVCも、学びはじめたころ、これを職業にしたいかもしれない、と思ったことがあった。どちらのときも、すごく興奮していたのだけれど、でも「いいえ違う。たしかに私がこれを学ぶのをやめるのは考えられないけれど、仕事としてやりたいのは、やらなくちゃいけないのは、アレクサンダー・テクニークだ」と思ったの。少なくとも今のところはね。

 ー(一同)それはどうしてですか?

 それが私が学んできたことだからというのと、それと、ティーチングという要素が入っているから。教えるということがあって、人が学んで、私も学ぶ―それが継続的なプロセスのなかで起こるから。NVCもそれは同じね。アレクサンダー・テクニークは触れるということがある。言葉以前のレベルで、身体的なコミュニケーションがある。これが私にとってはとても大事なことなの。それがどういうことなのかは、わからないのだけれど、同時に私はたしかにわかっている。これはとても実際的なことなの。毎日の生活のなかのこと、という意味での「実際的」ということだけではなくて、とてもフィジカル、身体的という意味で「実際的」。

言葉というのは難しくて、「身体的」という言葉を使うと人は、「じゃあそれは感情的なことではないんだね」「精神的なことではないのね」なんて言われるけれど、そういうことではないと思う。これはたぶん私の信念なんだけれど、身体ということをつきつめていくと、人のそのほかのすべての層をも表現するものとなっていくと思うの。だから、分けて考えているわけではないし、分けられるものでもないの。身体がより澄んだものになって、はっきりしてくると、すべての味わいのあることがらが身体を媒体にして流れ出てくるようになると思っている。

 ー私もそこのところに興味がある。アレクサンダー・テクニークの身体的な側面というのが、とても貴重だと感じる。でも身体的なところから入っても、身体的なところだけに影響するわけでなくて、分けられないから、 そこから入って心理的なところや精神的なところに影響していくというその可能性にすごく興味がある。それがどのように働いているんだろうというところを、もっとわかりたいなと思う。

 その前に、さっきの質問、なぜアレクサンダー・テクニークと言われるものを私がやりたいのかについて、最後まで答えるね。「その人全体」という考え方に基づいているからということもあります。そして、過去に起こったことを分析したりするのではなく、今起こっていることを観察するという考え方に基づいているから。アレクサンダーの中心的な原理として、今していることに目を向けるということ、そしてそれは、もし変えたかったら変えることができるということがある。私はこの原理がとても好きなの。 そして、言葉やコミュニケーションについても問いをなげかけている。これも興味深いところです。

 そして、さっきの身体的ということに関しては、私はいつも、人がこういうことについて「そうそう!」というのを聞いて、おもしろいなと思うの。 私がいつもアレクサンダー・テクニークという職業の難しいと感じることがあるのだけれど、それは、ほかのものと関係をもつことにとても抵抗があるということです。英国では特に、そういう傾向があることによってダメージを受けていると思うんです。「自分たちがやっていることは代替医療じゃない。自分たちがやっていることは医療ではないし、治療でもない」「私たちは大学や学校では教えない。単位を認めたり、試験をしたりすることはできないから。」「私たちはそういうものとは違う」というふうに言う。

 たしかに違うよ。だから私はアレクサンダー・テクニークをやってるの。そういうふうに、ほかのことには収まりきらないことだから。それでも私は、共通点を認識できないというのは悲しいことだと思う。共通点を認識することが、今もっともっと必要になってきていると思う。だから、人によっては「ボディワーカー」として認識されるのをよしとする人もいる。私はその言葉は好きではないけれど、でももちろん、体にはたらきかけている人も全体に関心があるのよ。体だけに関心があるわけじゃない。「ボディワーク」であれ何であれ、体だけに関心をむけているものはほとんどないと思う。ワークによっては、西洋医学のように、介入したり直したりするという意味で、より機械的なアプローチというのはあると思うけれど。だからアレクサンダーはいつも、「私たちはもっと間接的なアプローチでやるべきだ」と言っていた。だけど多くのほかのセラピーも間接的なアプローチなんだよ。だからこういうふうな社会的な認識において、分けることは私は悲しいことだと思う。

 そうは言ってもやはり、アレクサンダー・テクニークはほかのものとは違うものだけれどね。

 でも、おもしろいなと思うのは、人がアレクサンダー・テクニークについて語るとき『でも体をとおして全体にアプローチしていくでしょ』と言ったりするのがね。なぜなら私たちがアレクサンダー・テクニークを学んでいくなかではもちろん、「肝心なのは『考え(thinking)』だ」ってたたきこまれるわけだから。そうすると、どっちなのかしら? アレクサンダーの入り口は、体なのかしら、それとも考えなのかしら?

 アレクサンダー・テクニークのなかでも、教え方のスタイルの違いがあって、ある面を強調していたり、ほかの面を強調していたりするんだろうね。マージョリー・バーロウはよく神経組織について話していた。神経組織というのはとても、脳と考えと体の橋渡しになるものよね。

 私自身は、アレクサンダーが言っている、「人間の反応の質」というもののことをよく話す。私がこういう言い方が好きなのは、反応というのはすべてのレベルで起こるからなの。これは身体的なレベルだとか、感情のレベルだとか言うことはできないから。

ルシア・ウォーカー・インタビュー その2に続く

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ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その2

ルシア・ウォーカー・インタビュー その1から続く

ールシアはどういう教え方のスタイルが好きですか?

 そうね、わからないな。いろいろなところにすごく尊敬している先生たちがいるし、すごく尊敬している教え方がある。私がほかの人たちの教え方を尊敬していたり、うらやましいと思ったりするとき私は、「何が起こっているんだろう」と見てみるの。それで、私もそれを学んで自分のものにしたいと思うこともあるし、あるいはただ、誰かがその人なりのやり方をとてもいい感じにしているのを楽しむだけのこともある。私はほかの人びとのほかのやり方をとり入れることが多いわね。

 でもそれとはべつに私は自分がやっている自分のやり方があるということもわかっている。だから私はそのやり方が好きなんだろうね。あるいは、それがうまくいくと思っているんだろうね。でも、決してそれがただ一つの教え方だとは思っていないし、一番いい教え方だとも思っていないの。それはただ、私がやっているやり方なの。

 ーではルシア自身が教え方としてやっているやり方とは?

 状況によって違うのよね。いろんなことが混ざり合っているわね。たぶんこの、混ざり合っているということが重要なんだと思う。自分たちの反応にもう少し自覚的になれるような機会をつくろうとしているんだと思う。そしてそういう機会というのは、いろいろあるの。私はそういう機会をさまざまなものにしておくということが大事だと思っているの。だから、いつも日常の動作やパフォーマンスのアクティビティをレッスンで扱うわけではない。ときには、まったく新しいアクティビティをやるように提案することもある。何の役にも立たないようなね。あるいはただ、今起こっていることを、即興的にやることもある。

 そして、触れること、ハンズ・オンがある。私は触れることによって何が実際に起こっているかについて、ずっと研究している途中なの(笑)。たぶんそれさえも、そのときによって違うし、人によって違うのよね。わからないんだけれど、何か違うことを知るための機会を提供することだったり、何か違うことをするための機会を提供することだったりするんだと思う。そうして、可能性がひらかれる。そんなようなことだと思う。

 よく生徒はレッスンのとき、落ちついて平和な感じになったとか、静かになったとか言う。でもしばらく前まで私は、「静かだとか、平和だとかいうのって退屈じゃない?」と思っていたの。そういうのを好む人たちが多いけれど、私自身がそういうのが好きかどうかはよくわからなかったの。でもアレクサンダーさんは、そういうのを好んでいた。「そういう静かな、落ちついて集中できる状態、つまり、その人の理にかなったプロセスがはたらく状態にならなければ、何も学ぶことはできないし、経験することができない」というようなことをアレクサンダーは言っていた。私もそれはたしかにそうだと思う。あちこち興奮しすぎていたら、新しいアイデアがそこに入ってくるのはむずかしいよね。それで触れることみたいなことが、こういうことをとても自然な形で助けるんだと思う。同時に、教師自身がもっている質がモデルになって、そういうバランスのとれた状態になることを助けるんだと思う。そうすると、人は何かをとりいれられるようになる。人はそういうのが好きだし、より心地よく感じるのよね。私にとっては、ほかのやり方よりも触れることによってそういうことを助けるのが、やりやすいの。

 ー教え方は、教えるにつれて変化してきましたか?

 (少し考えてから)そうね。学ぶにつれて変わってきたわね。今までに話したようなことであるけど、同時に、自信(あるいは、起こっていることへの信頼= confidence)というのがどこからやってくるかということとの、バランスでもある。

 ー(一同)自信が、どこからやってくるって?

 自信がどこからやってくるか、それはわからない。でも、言えるのは、より自由になって、より、今ここに存在するようになることによって、自信がやってくるということ。でもそういうことはすごく難しい。 だから教え始めた当初は教えられた型のなかで教えていたよ。とくに個人レッスンではね。だいたいの場合、それはチェアワークであって、ライダウンのワークであって、とても単純な動きのワークだった。ある意味ではそれは今でもそうは変わっていない。ただ今は、生徒が質問したり、言ったりしたことからレッスンをはじめることが多い。私自身のアイデアからというよりもね。だから、レッスンで何が起こるかはわからないことが多いの。個人レッスンはそんな感じかな。

 そしてグループに関しては、私は教師養成のトレーニングを卒業してわりとすぐにグループのレッスンを教えはじめたの。私たちはグループを教えるとき、「このグループレッスンは単なる導入です」と言わないといけない、と教えられていたの。同じグループで10レッスンぐらいするときであってもね。最初にやったクラスのノートを今見てみると、今やっていることとほとんど変わっていないのよね。でも、今は私は、「これは単なる導入です」と言うのはふさわしくないと思うの。1回しかクラスをやらなかったとしてもね。もしかしたら来た人たちがそこから興味を持って、もっと学びたいと思うかもしれないけれど、それでも1回のクラスでも「その地点に学びがある」ということでないといけないと思う。私は「もしこれを勉強したらこういうようなことを学べますよ」というようなことをグループレッスンを教えるときに言うつもりはないの。私が教えられていたのはそういうことだったんだけれど。今はそうではなく「これが今学んでいることです。ちょっとしたことだけれどね」と言うの。

(註:最近は変化しつつあるが、少し前までは、とくに英国やヨーロッパではアレクサンダー・テクニークは一対一でひとりの先生について継続的にしか学べないもので、グループレッスンは、個人レッスンに来る前段階の紹介でしかないと考えられていた)。

 でもやっている形としては、昔と変わっていないですね。つまり、少し説明して、少し実験する―ゲームのなかで実験して、実際的な動きのなかで実験する。ただ最初のころは、グループで触れることはあまりしなかった。でも今は、触れることのパワフルさに気がついて、グループでもそれを含めるようになった。

 ーそうすると、アレクサンダーの教師のなかでは、1回だけのレッスンで本当に何かを教えることは不可能だとか、また、たくさんの人がいるグループで本当に何かを教えることは不可能だとか言う人もいると思うけれど、ルシアはそうは思っていないということですか?

 そうね、ある意味ではそうは思っていないかもね。そういう考えの先生と話したことがあるの。だれかがレッスンを受けたいと言って来たら、彼女はその人に、一週間に2回(3回だったかしら)、来ないといけないと伝えるそうなの。1週間に2回か3回のレッスンをかなり長い期間受け続けないといけないということだった。もしそれが無理だったら、それができる状況になるまで待ってもらうそうなの。

 私はそれを聞いて、少しショックだったのよね。私自身は、誰かが「2回ぐらいだけ、試しにレッスンを受けられますか?」と言って来たら、「どうぞ」と言っているからね。そして、2回のレッスンのなかで何かを学ぶことを、期待しているの。

 私のなかには、どちらの気持ちもあるわね。もうひとつの考え方のほうも理解できるの。アレクサンダー・テクニークはほかのものと違う、継続していくワークだから。アレクサンダー・テクニークは、「わかった。すべて理解したから大丈夫」というようなものではないの。アレクサンダー・テクニークは言ってみれば、永遠に変化を起こさせていき、ものごとを運んでくるものなの。

 だから、どちらとも言えるけれど、私は2回だけであっても、やってみる価値があると思う。可能性にひらいてみる価値があると思うから。ただそれは私がそういうふうにしているということだけであって、どちらのほうがよりよいのかはわからないけれどね。

 でも、私自身がどれほど学ぶ必要を感じているかということを考えたらね、だって、私は3年間の教師養成トレーニングをした後、16年かそこら教えているのよ。「それだけやっていまだに私が学べていないものを、4回だけレッスンに来た人がどうして学べるかしら?」と思ったりすることはあるわよね。だけどね、4回だけレッスンに来た人も実際、学ぶのよね。もしかしたらその人たちは、私より学ぶのが早いのかもしれない。もしかしたらその人たちは、私と少し違うものを求めていたからかもしれない。でもとにかく、4回だけレッスンに来た人でも学んでいるのよね。

 私が教えている夏季講習会で、大変なのがあるの。歌手の講習会で、1日に28人の歌手を、7人づつのグループに分けて10分づつ教えるの。7人づつが、お互いを観察したりすることになるわけだけど、私はそのとき、「こんなことやっても意味ない」と思ってしまったの。何の役に立つのか自分で教えていてわからなかった。でも翌年、そのなかの何人かはまた来て、「去年やったことがとても役に立ったんです」と言うのよね。またそのなかのある人はその後地元で、アレクサンダー・テクニークをさらに学べる場所を探したりしていたのよね。

 ー教えることをやめようと思ったことはありますか?

 教えるのをやめようと思ったこと?

 ーそう。もういいや。やめた、というような感じに。

 それは、なかったな。自分のために今でもテクニークを使っているからね。教えるのは学ぶためのとてもよい場所だから、それをやめるのは想像できないな。

 ただ、「私が教えたり学んだりしたいやり方はアレクサンダー・テクニークという形ではない」と思ったことは、過去にあった。尊敬する人たちがほかのことを学んでいるのを見て、私もそれを学びたいと思ったことはあった。でも、おかしいんだけれど、私が手放したくなかったのは、やはり、触れることだったのよね。触れることによって情報を分かち合うということだった。それ以外のことはほかの方法でもできると思うし、触れることを使ったほかの手法にも、すごく興味深いものがたくさんある。知っているアレクサンダーの教師のなかでもクレニオ・セイクラル・セラピーやクレニアル・オステオパシーや、そのほかのものをやっている人がいる。でも、そういうもののうち、 アレクサンダー・テクニークと同じ質のものはひとつもないのよね。

ルシア・ウォーカー・インタビュー その3に続く

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ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その3

ルシア・ウォーカー・インタビュー その2より

ーあなたのところに来る生徒さんたちは、どのような理由で来る人が多いですか?

 幅広くいろいろな人が来ますね。ミュージシャンやシンガーの人はかなり多いですね。それと、人生に満足していなかったり、健康に満足していなかったり、また、「人生に自分で責任を持ちたいんです」と言う人もいます。それと、なんというか「なにかがちょっと足りない」と感じているような人が来ているかな。もっと深刻な人もいます。背中に問題があったり、痛みがあったり、それでほかのことをいろいろ試してみたけれどどれもうまくいかなかったので、 アレクサンダー・テクニークが最後の頼み、というような人もいます。

 また、来る人たちのなかには好奇心だったり、より意識的・自覚的になるということに興味を持っている人たちがいます。 私自身がそういうことに興味を持っているからかもしれません。 人はそれぞれがワークしたいと思ってることを自ずから引き寄せるものだというのが私のちょっとしたセオリーなの。うれしいことよね。

 この2年間、修道院で教えているということ、あなたにすでに話したと思う。最初、シスターが私のところに個人的に習いに来ていたんだけれど、その後、そこに私が行って教えるようになった。彼女たちの学んでいる理由はいくつかあると思うけれど、彼女たちはあまり外に出ないから、自分たちの健康に自分たちで責任を持てるかどうかを気にかけている。コミュニティにいて、病気になったり弱くなったりしたくないからね。私がいいなと思うのは、その人たちの間に、アレクサンダー・テクニークというのは何か自分でできることだという認識があること。同時に、自分たちがやっている実践の助けにもなると思われている。

また、誰かに「あなたアレクサンダー・テクニークをやったらいいわよ」と勧められて来る人もいる。いろいろな理由があります。

 私の母(=エリザベス・ウォーカー アレクサンダー・テクニーク教師)は、「姿勢」という言葉がアレクサンダー・テクニークに関連づけて語られることを嫌っていたけれど、実際、姿勢をよくしたいという理由で来る人もいます。私には、それはとてもよい理由に思えるわ。そういう人は、見た目としても、感じとしても、自分がみじめに見えるし、感じられるということをわかっていて、それを変えようとしているわけだから。ティーンエイジャーのうちの何人かはそんな感じだったけれど、すごくいい生徒たちだったよ。

 ーたとえばだれかに言われてレッスンを受けに来たような人で、アレクサンダー・テクニークについてよく知らなかったり、とくにどうしたいという希望がないような場合、ルシアはどういうふうにワークしますか?

 もし来るんなら何か理由はあるはずなのよ。ただ、親が子どもにレッスンを受けさせたいという場合には、私はいつも「お子さん自身が来たいと言っていますか?」と聞くの。何歳であっても、その人自身が選んで来ている場合以外は、教えたくないの。その人自身が来たいと思ってるんじゃなかったらね。

 ただ、なぜ来たいと思っているのか、よくわからないという人たちもいるわよね。実は私は、そういう人に教えるのがけっこう好きなの(笑)。そこに何かひらかれているものがあるから。アレクサンダー・テクニークが、可能性を探求していって、それをさまたげているものをとりのぞいていくことについてのものだ、ということを、気づかないうちに理解しているみたいな感じなのよね。

 そして、「友達がすごくいいって言っていたので来ました」という人にたいしては私は、「お友達は何て言っていたの? お友達が言っていたことのなかで、あなたにやってみたいと思わせるようなことが何かあった?」と聞いてみるの。

 つまり、私はいつも、その人がアレクサンダー・テクニークのどこに惹かれたのかを見つけようとするの。

 で、人は何らかの理由で来るんだけど、その理由はすぐに変わることも多いのよね。

 ーたとえばどんなふうに変わるんですか?

 ダンスをとおして知り合った人がレッスンに来たの。仕事を持ちながら、ダンスクラスをやっている人ね。彼女は毎週仕事帰りにレッスンに来て、数週間経ってこんなことを言ったの。「私はダンスの助けになると思って来たんです。そしてたしかに、ダンスの助けになったんだけれど、私がレッスンに来たかった一番の動機は、私が考えていたものとは違っていたんです。一番の理由は、自分のために時間をとるということだったんです。突然それに気がついたんだけれど、すごく変な感じですね、一時間オフをとって自分のために使うというのは、人生に新しい次元が加わったような感じです」。

 ールシアのところには、とても長い間レッスンに来ている人もいると思うけれど、どんな人が長くレッスンに来ていますか?

 私は1988年に教えはじめたので、それ以来ずっと来ている人がいれば、その人が一番長く来ているということになりますね。それくらいの期間続けてはいるけれど、ずっと私のところでではなくて、以前ほかのところで学んでいて、その後私のところに来たというミュージシャンが何人かいますね。 一番長く私のところに来ている人としては、ある年配の女の人がいるわね。今70代で、もう 10年以上来られていますね。

 ーその人はどうしてそんなに長い間レッスンを受けつづけているのかしら?

 よくわからないのよね。たぶん私のことが好きなんだと思う(一同笑)。

 いえ、へんな意味じゃなくて、いい意味でね。
ほかの音楽家などの人たちにしてもそうだけど、もちろん学ぶことに興味を持ち続けているから来ているのだけれど、単にそこに行けば学びをサポートしてくれる人がいるとわかっているから、ということもあると思う。そういうのってけっこういいものなのよね。ときには、何か学ばなくちゃ、と思わないといけないのが重荷になときもある。べつに何も学ばなくてもいいのかもしれない。来るだけで十分なのかもしれない。

 つまり、彼女が私のことが好きなのかも、と言ったのは、私のとこが彼女にとって、何かを思い出すための場所だったり、何か気分が転換できる場所だったり、サポートされる場所であったり、気にかけてくれる人がいる場所であったり、ただそれだけのことなのかも、というような感じ。

そうだとするとそれは、私自身が教師として何かをコントロールしなきゃというのを手放す助けにもなるのよね。そしてそれは、若い人たちを教えるときにも必要なことね。

私はその人たちがなぜ来ているのかはけしてわからないのかもしれない。それでいいんだと思う。もし私が何かを与えることができているのなら。もちろん、はっきりした動機があって長いこと来ている人たちもいるけれどね。

 レッスンを受けることを止めたときに本当に進歩する人たちもいる(笑)。そして、少し経ってから「自分が本当にこれを必要なんだとわかった」と戻ってきたりするの。私自身もそうだった。教師養成のトレーニングを卒業したとき、そのときがはじまりだった。それ以前は「だれかが何か私に教えてくれるんだわ」という感じだったのが、卒業後は、「えー、私が自分でやらなくちゃいけないのね」という感じになった。それは大変だったけれど、わくわくすることでもあったのよね。

 私、長くレッスンに来る理由は何かという質問に答えたかしら。そうね、その人たちがテクニックを実践したり、学んだりすることのサポートだと思う。

 それと、わりあいに長く続けている私たちみんなもそうだと思うけれど、アレクサンダー・テクニークを学ぶことによって感受性と興味が育っていくから、もっと学びたいという気持ちも育ってしまうのよね。私のところに来ているミュージシャンで、はじめは4レッスンだけ受けると言っていたのに、もう4年来ている人がいるよ。それもけっこうしょっちゅう、来られるときは毎週来ている。

 -アレクサンダーの原理は、「自分自身に戻る」というような考えとかみ合うと思いますか?

 もう少し言ってくれる? 自分自身に戻るっていうのは、その人の自然な…

 -そう、本来の自分。

 私の母の言葉で言うと「もって生まれたもの」ね。母は、人は協調作用とか、よい使い方とか、そういうものをもって生まれてくるという意味で言っているわけだけれど。どうかしら。そうとも言えるし、そうではないとも言えるかしら。

 私は、(母が教えていた)自分が学んでいたトレーニングコースでさの説明のし方を、かならずしも信じてはいないの。私は子どものようになろうとしているわけではないと思う。そういう意味の自然さを求めているわけではないと思う。私が興味があるのは意識的でいること/自覚のほうだから。もちろん、無意識のなかの美しさというのは、すばらしいものだけれど、それは私が追い求めているものとは違うの。そして、人が アレクサンダー・テクニークのレッスンにそれを求めて来ているとは思わない。求めているのは意識的でいることのほうだと思う。それはとても難しいことだからね。

 でも、そうね、それはともかく、本来の自分というのがどういう意味であっても、あきらかに アレクサンダー・テクニークはそれを見つける一番いい方法のひとつだと思う。 本来の自分はどこかしら、とむこうのほうに探しに行くということではなくて、ここに戻ってくるという意味なら。そのためにアレクサンダー・テクニークは役立つと思う。 学び始めた頃は私はそうは思っていなかったのよ。実は、アレクサンダー・テクニークを学ぶことにとってもし自分の癖が取り去られてしまったら、個性というものはなくなってしまうのではないかと、少し心配だったくらいなの。

 ー私もそれは心配していました。

 退屈な機械になってしまうんじゃないかってね。心配よね。私たちは自分たちの「個性」にとても執着しているからね。でも学うちにわかったことは、なんといったらいいか、癖が取り去られたら、もっとはっきりと力強くその人が現われてくるということだった。それを本来の自己と言っていいと思う。よけいなものを取り去るにつれて、そこにもっとはっきりとした「その人」が現われてくるのよね。

 ー今日はおもしろいお話をたくさん聞かせてくださってありがとうございました。私何か聞き忘れたことはなかったかしら?

 ほかの人たちも、何か私に聞いておきたいことない? 今私はあなた達みんなに、私が聞かれたのと全く同じ質問をしたい気持ちよ(笑)。でもこんなふうに質問されるのは、いい気分ではあるわよね、何か特別な人になった気分で。そして私は何でも言いたいことが言えるんだからね。普通の対話だと、「私はこう思うんだけど、あなたはどう?」と聞いたり、あるいはこちらが聞かなくても、「何ばかなこと言ってるの?」と相手に言われたり、普通はそんなふうに反応しあうでしょ(笑)。

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An Interview with Lucia Walker May/8/2003 in Tokyo: Introduction

ルシア・ウォーカーさんと。photo by Tomoko UeharaI met Lucia for the first time in June 1999, in the last year of my teachers training. She visited our training course in Japan and taught for 3 weeks as a guest teacher. Before her visit, people had talked about her, saying that her parents were also great teachers who is learnt directly from F. M. Alexander (the founder of the AT).

My first impression of her was very ordinary person. She didn’t seem special -she almost disappeared among students. But in 3 weeks, I found out that she always has a clear intention when teaching, and communicated it to the student just as much as each student needed at certain moment. And she didn’t turn the technique into something special but as the tool we can use.

As well as being an Alexander Technique teacher, she is a dancer and a dance teacher well-experienced in contact improvisation. Using such experience, she teaches the Alexander Technique in a practical way helping us learn how to be aware of oneself/world moment by moment, and how that is related to movements.

I am grateful that she’s been coming to Japan almost every year since her first visit. This year I asked her to come to our class, and also do an interview with me. The interview was done in a friendly atmosphere at a neighboring park, sitting round a simple wooden table.


Part1

“it’s curious when people talk about it, when they say, ‘But you approach the whole thing through the body’ – because of course, in all our learning, we get drummed into us that it’s thinking that counts. So is Alexander’s doorway body or thought? “

Part2

“I certainly don’t think it’s the only way to teach, or even the best way of teaching. It seems to be the one I do.”

Part3

“I was a little worried that if I took away my habits, I would have no personality left. But what I discovered is that actually, as you take stuff away, you get a clearer and stronger ‘somebody’ appearing.”

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