カテゴリー別アーカイブ: アレクサンダー・テクニーク

太極拳とアレクサンダー・テクニーク

シアトルで太極拳とアレクサンダー・テクニックを教えている座間晶子(ざま・しょうこ)さんが来日されたので、先日の日曜日の朝、ワークショップを企画しました。今回は、「太極拳入門」です。幸い、晴れたので、中国の人たちのように公園で円になって行いました。
とても気持ちよかったです。

時間が短かったので、太極拳の「型」にはあまり行かず、立って腕をぶらぶら動かしたりしている気功の時間が大部分だったのですが、そういうことをじっくりやれてよかったです。

晶子さんは、アレクサンダー・テクニックと太極拳の両方の経験を、じっくりご自身のなかで時間をかけて熟成させたのを出してくれます。
アレクサンダー・テクニックの考えを使うと、プロセスがシンプルになってわかりやすいし、それを太極拳という型でご自身の体に落とし込んできた人なのだな、と思います。

また晶子さんは、中国の古典などもよく読んでいる方で、東洋の”心身一如”からだとこころを一つのものとしてみる考え方(西洋では”ソマティクス”と言ったりしますね)について、また、道教タオイズムが中国ではどんなふうに根付いているか、など、いろんなおもしろい話をしてくれました。

日本でも、漢字では見たことがある、中国の四字熟語をいくつか紹介してくださったのですが、字づらを見ただけではわからない、中国の発音の、ほわんとした美しさがわかって、イメージがぐっとつかみやすくなりました。(和風の「漢語」だと、どうしても堅苦しいイメージになっちゃうからね。)

体験としてもとても気持ちよい体験ができたし、話もおもしろい話が聞けて考え
が活性化されて、そのバランスが、とてもしっくりきました。

終わった後で、みんなで近くのおいしいネパール料理屋”天空の舞い”に行って、お昼を食べ、さらにいろいろ話しました。

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西洋医学と民間医療の共存 そしてソマティクスの位置付け

以下のような、講演とワークショップのご案内をいただきました。
「アメリカでは今、すべてを専門家に任せるのではなく、自ら積極的に治療を選択し取り入れようとする一般市民の「主体身体の復権」と呼べる大きな変化が起こりつつあります。」
とても興味深いです。

統合医療とわたしの「からだ」―癒しと健康の出発点を探るー
                ファシリテーター:村川治彦

1993年「New England Journal of Medicine」に発表された一つのレポートが、アメリカの医療を根底から変えつつあります。「これまで西洋医学が認めてこなかった様々な民間の癒し の技法を、アメリカ人の多くが信頼し自ら進んで治療を受けており、それを知らないのは医者だけ」という現実を明らかにしたこのレポートをきっかけに、ア メリカの医学界は西洋近代医学と民間医療の共存を目指す統合医療(Integral Medicine)の道を歩みだしました。

この統合医療では、ヨガや東洋医学、カイロプラクティク、催眠療法、各種のリラクゼーション法などこれまで西
洋医学から無視されてきた様々な実践が有効な治療法として注目を浴びています。

しかし、この統合医療の意義はたんに民間治療の専門家が西洋医学と協力しあう点にあるのではなく、そうした様々な専門家の治療を主体的に選択している一般消費者こそが医療変革の原動力になっている点にあります。
アメリカでは今、すべてを専門家に任せるのではなく、自ら積極的に治療を選択し取り入れようとする一般市民の「主体身体の復権」と呼べる大きな変化が起こりつつあります。

そしてこの「主体身体の復権」には、人間性心理学、トランスパーソナル心理学、
ソマティクスなどこの100年にアメリカで発達したからだとこころの関係
を探る様々なアプローチや心理療法が大きな役割を果たしてきました。

この講演会では、自らの「こころとからだ」への気づきを育むという観点からアメリカ の統合医療の意義を捉え、そこから浮かび上がってくる「主体身体の復権」というテーマをみなさんと一緒に探っていきたいと思います。またワークショップでは、講演会での議論を踏まえ、私たち一人一人が「主体身体」を復権させる方法を、気功やソマティクスなどの身体技法を手がかりに、体験的に探って行き
たいと思います。

(ゆりこ註:ソマティクスsomaticsとは、じぶんの身体と心をひとつのものとして、そして自分自身のものとして、内的に認識するための技法の総称で、アレクサンダー・テクニックもそれに属します。)

●●● 講演会:統合医療と一人称の「からだ」 ●●● 
日時:    6月25日(土) 午前10時―午後1時
参加費:   3000円 (学生2000円)
会場:     アウエイクン (大阪市港区八幡屋1丁目11-1 地下鉄「朝潮橋」駅徒歩5分)
●●● ワークショップ:わたしの「からだ」を探る ●●●
日時:     6月26日(日) 午前 9時―午後5時   
参加費:   10000円 (学生8000円)
会場:     アウエイクン (大阪市港区八幡屋1丁目11-1 地下鉄「朝潮橋」駅徒歩5分)

ファシリテーター:村川治彦(Integral Studies, Ph.D.)
東京大学文学部宗教学科卒。California Institute of Integral
Studies統合学博士課程卒業。サンフランシスコゲシュタルト研究所修了。「か
らだ」と社会や文化の関係を「一人称のからだ」を通して体験的に探る
身体学を専門とする。Association for Transpersonal
Psychology理事。人体科学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会会員。
アメリカ心理学会心理療法ビデオシリーズ問題別アプローチ監訳
者(日本心理療法研究所発行)Center for East-West Dialogue代表。カリフォルニア在住。

お問い合わせ: Center for East-West Dialogue (イーストウエストセンター)
info@east-westdialogue.org
http://www.east-westdialogue.org

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リカさんと出会い、教え方の違いについて考える

えー、このブログは日付をさかのぼって投稿してみました。

イスラエルからリカ・コーエンさんというアレクサンダー・テクニックの先生が来日して、ワークを受けました。リカさんは2年前まではアメリカのニューヨークに住んでいて、ニューヨークの友人や、私がボストンで習ったトミー・トンプソン氏などから、「こわいけどいい先生だよ」などと、いろいろ噂を聴いていたので楽しみにしていました。67歳になる先生です。

受けてみて、とても興味深かったです。アレクサンダー・テクニックの先生はけっこう個性的な人が多いし、また100年の歴史になるテクニックなので、原理はシンプルなのですが、人によってその解釈の仕方、受け止め方、やりかたなどがけっこう多様なのです。
リカさんのワークは今まで受けたどの人のワークとも違う感じでした。
リカさんはマクドナルドさんという人に習った人なので、「マクドナルド派」と言われたりもするのですが、
いわゆるマクドナルド派の他の先生とくらべても、ユニークな感じがしました。

でも同時に、究極的にはいろんな先生ともやっぱり共通するなあ、とも思いました。

まだ私自身体験が言葉にまとまっていないのですが、ゆっくり消化していきたいと思います。

でも言葉にはまとまらなくても、翌日からのレッスンが、少し、より明快にできるようになった気がして、やはり影響をあたえてくれる先生に出会えるというのはうれしいです。

————
ワークの内容とは少しずれますが、
リカさんの人となりが、なかなか魅力的でした。
「強烈な人」「こわい人」「だけどかわいい人」などの前評判を聞いていて、
たしかにそうなのだけど、それがあいまって、魅力的な人でした。

リカさんは自分の考えをとてもはっきりと表現する。
「アレクサンダーテクニックというのは、こういうものなのだ」
と、それが他の人の考えと相容れなくても、はっきり言う。

なんだけど、自分の考えと違う人を、避けたり排除したり、ばかにしたりしない
人だ。ということを、強く感じました。

だから、ワーク中はリカさんのやりかたでやらなくちゃいけないけど、
自分は自分のままでいていい、という妙な安心感がありました。

もしかしたら、リカさんがイスラエルの人だということも関係してるのでしょう
か?
「宗教だっていろいろあるのだから、ワークに関する考え方が人によって違うの
もあたりまえなのよ。仲良しの○○(AT教師)とも、毎日のようにお互いにワークしあっているけれど、彼だって私と同じようには考えない。それでいいのよ。」
というようなことを言われてました。

それで、かなり違うワークをするトミー・トンプソンとも親友なのだなあ。

それから、「私に習ったからといって、私と同じように教えようとする必要はないのよ。違う人間なんだから、そんなこと、できないし」と、言われていました。
なんだか、そういうふうに言ってくれる先生の存在は、うれしいです。

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ニューヨークから先生が来日!(2)

きのうはアン・ワックスマンさんのレッスンを受けたおかげで、だいぶ、ぼーっとした一日でしたが、おかげで今日はすっきりと、早朝に目覚めてしまいました。ひさしぶりの早起きですが、さわやかです。

きのうのレッスンは、同僚教師の和子さんと一緒に受けました。お互いに教師役/生徒役になって、ワークするところを見てもらおうと思っていたのですが、結局そこまでに至りませんでした。それぞれ自身のワークをしてもらって時間になってしまいました。

アレクサンダーテクニックは「自分自身の使い方」を観るワークですが、
教えることにとっても、
教師自身の「使い方」が、生徒さんに教えるときの鍵になるのです。
教師自身が自分を固めているままだと、生徒も緊張から解放できません。
私自身が「やりすぎ」から離れていくプロセスが、生徒さんに伝わるのです。

自分でそんなにやりすぎていないつもりでも、やりすぎているんだなあ、
ということを、ひさしぶりにレッスンを受けて、あらためて感じてしまいました。

今日もレッスンを受けるので、今日こそはワークするところを観てもらえるかな?

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ニューヨークから先生が来日!

ニューヨークから、アン・ワックスマンというアレクサンダーテクニックの先生が来日しています。彼女はもう20年教えているベテラン先生です。
来日は、3回目ですが、前の来日は9年ほど前でした。

今朝、彼女のレッスンを受けてきました。
なので、ぼーっとしています。

アレクサンダーテクニックのレッスン受けたはじめの生徒さんがよく、「眠くなる」とか「ぼーっとしてしまう」と言うことがありますが、それを、ひさしぶりに体験しています。

アンさんから習ったことについては、できれば後でもう少し書きたいです。

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「教師」という立場

このブログは直接的にアレクサンダー・テクニックについて書くということとは、少し違う方向、でもアレクサンダー・テクニックとつながりはある方向、に展開していっています。
ひとりよがりでなければいいのですが。。
よろしければもう少しつきあってください。

きのう、私にとってアレクサンダー・テクニックを教えてる意味について、
次のようなことを書きました。

誰が何をいおうと、どんな情報があろうと、自分の身体を自分で信頼できる人、
自分の感受性を自分で信じられる人、自分で考えて自分で行動できる、
そんな個性的な大人に、みんながそれぞれなれれば、世の中もっと楽しくなる。

そういう人を育てる教師になるために、考えないといけないなぁと思うのが、
「教師」っていう立場についてです。

「教師」っていう立場は、私が好むと好まざるとにかかわらず、
「生徒」という立場からみて「上」に立ってしまう、ということです。

私なんかはそんなカンロクがあるタイプでもないし、声も大きくないし、
しゃべるのも下手だし、
ワークショップのオープニングではいまだにいつもオロオロしてしまうし、
どっちにしてもそんな「上」に立てるタイプじゃないし、、
と、思ってしまうことも多いのですが、
そんなことに関係なく「教師」として人に接する以上、
「上」に立ってしまうのです。

たとえば教師であるときの私が言うことは、
ほんとはそうじゃないかもしれなくても、正しいことに聞こえたり、とか、
ほかにもいろいろあると思います。

私がもう一つ学んでいるプロセスワークというのがあるのですが、
そのなかでの考え方で、教えるということを考えるときに大変役に立った考え方があります。
プロセスワークでは、そうやって立場によってできてしまう上下関係のことを、
「ランク」といいます。
(逆には生徒の立場は生徒の立場の「強み」があるから、
教師と生徒の両方に、お互いにランクがある、なんて言います。)

そして、
大事なことは、ランクをなくそうとすることではない
ランクは、なくならない
大事なことは、ランクがあるってことを、自覚することだ

と、言います。

このアイデアを聞いたときには、ほんとに、目からうろこでした。

それまでは私は、
「そんな『上』に立つのなんて私はキライだから、
私はそういうタイプの先生にはならないよ」
という態度だったのです。
でもそうすると、自分では自覚なしに上に立っていて、
自分では自覚なしに人になにかを押し付けているタチの悪い人になりやすいんですよね。
そして、そのことによって相手(この場合では生徒さん)が悩んでいても、
「それは、その人の問題だ」という結論にしてしまったりしてしまうのです。

それぐらいなら、自覚的にしっかり「上」に立って、
(別にえらそうにする必要があるという意味ではなくて)
その立場としてどうやって自分と相手を尊重して、信頼できる関係をつくれるか
ということを考えたほうがいい
ということです。

そういうことによってこそ、「教師」も「生徒」も、お互い成長できて、
冒頭に書いたような

誰が何をいおうと、どんな情報があろうと、自分の身体を自分で信頼できる人、
自分の感受性を自分で信じられる人、自分で考えて自分で行動できる、
そんな個性的な大人

に、みんなでなっていけるようになる、と、思っています。

たいへん難しいことですが、
このことについては考えつづけていきたいと思っています。

追伸)
プロセスワーク関係者の方、これを見ていたら、「ランク」について補足とか、
参考本の紹介とか、していただければ、たいへんうれしいかも?

また「セルフラーニング研究所」の平井雷太さんの考え方にも、
たいへん参考になり考えさせられるものがあります。

本の玉手箱
「新・子育て廃業宣言」
セルフラーニングシステム」とは、一言で言うと”教えない教育”である。

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私がアレクサンダー・テクニックを教えてる理由

『キラーブランドの始まりは、路地裏のお店から』という本を読んで、
自分がアレクサンダー・テクニックを教えてる意味について考えました。

この本は東海地方の若者男子に大人気のメガネブランドのオーナーが書いた本で、自分の会社や商品を、どう「ブランディング/ブランド化」したかについての本です。
東海地方とか若者男子のファッションとか「ブランド化」とか、私には関係ない世界だなと思ったのですが評判になってる本みたいだったので読んでみたら、
すごくおもしろかったし私にもとても関係があった!

「ブランディング」とは、「らしさ」を追及することだった。

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ルシア・ウォーカー・インタビュー2003年5月8日 東京にて はじめに

ルシア・ウォーカーさんと。photo by Tomoko Uehara ルシア・ウォーカー(Lucia Walker)さんに私が最初に会ったのは、教師養成コースでトレーニングを受けていた最後の年、卒業する少し前の1999年の6月でした。そのとき彼女は始めて来日して、3週間、私たちのコースのゲストの教師として来られました。評判ではルシアは、ご両親もエリザベスとディックというアレクサンダー・テクニークの教師で、しかもそのご両親はF.M.アレクサンダーから直接習った先生のうちの数少ない生き残りということで、「なかなかすごい人らしい」という評判でした。

 会ってみたら、おどろくほど「ふつうの人」というか、等身大の人というか、生徒たちのなかに紛れてしまうほど、自分を特別に見せない人でした。しかし3週間ほぼ毎日会ううちに、彼女が教えるときとても明確な意図を持っていて、それを、その人にそのとき必要なだけ明確に伝えてくれるすばらしい先生だということがわかってきました。。そしてそれを、特別なものとして伝えるのではなく、ひとりひとりが使えるものとして教えてくれる先生でした。

 ルシアは、コンタクト・インプロビゼーションというダンスを踊り教えるダンサー/ダンス教師でもあります。彼女はその経験も生かして、瞬間瞬間に気づきをもつことと、動きの関係についての、実践的な教え方をしてくれます。

 最初に来日してから、ルシアがほぼ毎年来日してくれるようになったのはありがたいことです。今回、2003年の5月、ATA アレクサンダー・アソシエイツの招きで来日したとき、私の教室にも来ていただき、近くの大塚公園でインタビューもすることができました。インタビューは、通訳のヘルプを兼ねたほかの生徒二人と一緒に木のテーブルを囲みながら、なごやかな雰囲気で行われました。


・その1

「人はアレクサンダー・テクニークについて語るとき、よく『体をとおして全体に働きかけるでしょ』と言ったりするよね。でも私たちが学ぶなかでは『肝心なのは考えだ』とたたきこまれるのよね。さていったいアレクサンダーの入り口はどっちなのかしら?体なのかしら?それとも考えなのかしら?」

・その2

「私は私がやっている教え方が決してだた一つの教え方だとは思っていないし、一番いい教え方だとも思っていないの。それはただ、私がやっているやり方なの。」

・その3

「学び始めた頃、もし自分の癖を取り去ってしまったら、個性というものはなくなってしまうのではないかと、少し心配だったの。でも学ぶにつれわかったことは、よけいなものを取り去るにつれて、もっとはっきりと力強くその人が現われてくるということだった。」

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ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その1

 ールシアはどういうきっかけでアレクサンダー・テクニーク(以下AT)を学びはじめたのですか?

 思い出してみるわね。一番の理由は、もっと自由に動きたいということだったと思う。ちょうど、ほぼ同じころに、ダンスに興味を持ちはじめていたから。最終的に、あるダンスのフォームを教わった。それもまた、よい使い方を見るということだった。がんばって動くというよりは、動きのほうへ解放されていくということだった。そして、太極拳というものがあった。太極拳は、もう少し機械的でないもので、また、もっとエネルギー的な次元の動きだった。それで太極拳も習ってみた。何かの拍子に、ほんとうに違う状態に入ってしまった感じがしたときのことを今でも思い出せる。いつもよりずっと軽くて、満ちていて、ずっとパワフルな感じだった。それまでATのことをいくらかは知っていたけど、それほどには知らなかった。でも、そのとき突然理解したの、たぶんATがめざすものもこういう状態なんじゃないかな、って。それで急に興味をもちはじめたの。もしこういう状態にもっと楽に到達できたら、と思ってね。

 もうひとつ、動きに興味をもちはじめる前に、ATの教師のトレーニングをやってみようかなと思ったことがあったの。何をしたいのか自分で本当にわかっていたわけではないんだけれど、私は前から教育に興味があって、児童教育のトレーニングを受けていたことがあるの。でもやってみて、あまり私がやりたいことではない感じがした。それでも学びに関することには、いつも興味を持っていた。そして ATが、とてもおもしろい学びの方法に見えたの。

 ー学びつづける過程で、学びつづける理由は変わりましたか?

 変わったともいえるし、変わらないともいえるわね。たぶん理由の説明のしかたが変わっただけなんじゃないかな。これは教えるときによく話すことなんだけれど、どうしたら人間になれるか、なんていうことをよく話すの。人間であるということは、ほんとうにかけがえのないことだけど、ある意味とても私たちにとって難しいことなのよね。だからどうしたら全体的な人間になれるか、そして生きている意味をまっとうできるか、というようなこと。まぁ、それがどんなことか、少しでもわかりかけることができたらね。

 そして私は教えるプロセスのなかで、その人たちが自分自身をより全体的に表現するようになっていくのが見えるのが好きなの。これが一番私が好きなことかもしれない。私自身も自分自身をより全体的に表現するようになっているのを感じて、同時にほかの人たちも同じようにそうなっていくのを見るのが好きなの。

 ー個人的な経験として、ATを学ぶことが役に立ったと思われることはありますか?

 ええ。まず踊り方を学ぶ助けになったということは、たしかに言えるよ。それに、なぜ自分が踊りたいかを理解する手助けにもなった。そして、ああ、とてもたくさんのことがあるわね。自分がもっと幸せになる助けにもなったと思う。でも難しいけれどね。長い時間のなかで、もしそれがなかったらどうだったかなんてこと、わからないもの。でも確かにATの原理は自分が人生に興味を持ち続ける方法をあたえてくれたと思う。それはつまり、知覚的な喜びということだと思う。何でも起こっていることのなかにある喜びを感じられるということだと思う。

 ールシアはATのほかにもいろいろなことをやっていると思うんだけれど、ルシアにとって、あなたがやっているほかのことと ATはどう関係がありますか?

 私はATのほかにたくさんのことをやっているからね。

 ーそれはATだけでは求めているものが得られなかったから?

 どうかしら。(考える)でも、そうね。でもそういうものをはじめからATに求めていたわけでもないし。ATが十分でない、というふうには思わなかったよ。むしろATが、ほかの勉強などにもっと興味を持たせてくれたり、学べるようにしてくれたのよね。

 ダンスやコンタクト・インプロビゼーションは私にとって、とくにコンタクト・インプロビゼーションに関しては、ATとお互いにサポートしあっていると思う。どちらかを学んでいなくて、どちらか一方だけを学んでいたということを、想像することができないもの。

 個人的なレベルでは、中国医学、とくにファイブ・エレメント・アキュパンクチャー(五行鍼灸)という、イギリスで発展した鍼灸の形態があるんだけれど、それに私は助けられている。どんなにこれに私が助けられているか、と、いつも思う。そしてそれはATにはないようなやり方なのよね。でもその一方で、この方法にいつも私はフラストレーションも同時に感じるの。これは治療であって、介在者が必要だというところでね。何かやってくれる人が必要だということになるから。それで、自分にとってどれだけATのありようが大事かということに気づかされた。 ATも、たしかにだれかほかの人との交流のなかで学ぶのだけれど、そのなかで、自分で自分のために何かを発見しているということがわかるからね。

 でもおもしろい話があって、治療を受けはじめたころ、治療してくれた人が話してくれたことなんだけれど、彼女はATを知っている人なのだけど、エネルギーも、流れていき方の習慣を持っているんだって。そしてその習慣から解放されるためにはサポートが必要なんだそうです。私はこの鍼灸士との関わりからは、すでに知っていたことや新しいことや、いろいろなことをたくさん学んだ。

 もうひとつ、個人的にも、教えることに関しても、とても自分の支えになっていると思うものがあって、同時にATがそちらを学ぶための大きな支えになっているとも言えるんだけど、それは、 「NVC-非暴力コミュニケーション」と言われている方法です。これは、とても、今の瞬間に関することなの。これは、コミュニケーションに関することでもあるし、違いをあつかうためのことでもあるんだけれど、同時に、まずは人とつながることであって、自分自身とつながることなの。これをATと一緒に学ぶことは、ほんとうに私自身に役立っている。言語コミュニケーションにおける習慣にものすごく気づかされるよ。

 ーそれは言い表し方にかんするモデルなんですか?

 そうね、ある意味では言い表し方に関することね。でも私が学びつづけ、実践しつづけるにつれて、たしかにこれは言葉のことではあるんだけれど、このモデルのなかでは、評価とレッテルというものが、私たちの言葉における暴力だと言っている。よい評価であってもね。誰かを何か固定したものなかにおさめてしまうわけだから。でも、これは言葉というよりむしろ態度に関することなの。自分が自分に何をしているか、話したりコミュニケートするときに、どういう意図を持っているかとかいうことなの。学びつづけるにつれて、だんだんそういうことがわかってきた。それで、少し楽になった。だって言葉のパターンを変えるのは、すごく難しいからね(笑)。実際、言葉の背後にほんとうには何があるかということを見ることができるようになってきたら、起こることも変わってくる。

 そして、ダンスに関しては、ずっと教えてきて、今でも教えているし、自分でも踊っている。それがとても助けになっている。

 鍼もNVCも、学びはじめたころ、これが私が職業にしたいことかもしれない、と思ったことがあった。どちらのときも、すごく興奮していたのだけれど、でも「いいえ違う。たしかに私がこれを学ぶのをやめるということは考えられないけれど、私が仕事としてやりたいのは、やらなくちゃいけないのは、アレクサンダー・テクニークだ」と思ったの。少なくとも今のところはね。

 ー(一同)それはどうしてですか?

 それが私が学んできたことだからというのと、それと、ティーチングという要素が入っているから。教えるということがあって、人が学んで、私も学ぶ、そういうことが、継続的なプロセスのなかで起こるから。NVCもそれは同じね。ATは触れるということがあるから。言葉以前のレベルで、身体的なコミュニケーションがあるから。これが私にとってはとても大事なことなの。それがどういうことなのかは、わからないのだけれど、同時に私はたしかにわかっている。これはとても実際的なことなの。私が言っているのは、毎日の生活のなかのこと、という意味での「実際的」ということだけではなくて、とてもフィジカル、身体的という意味で実際的と言っているの。言葉というのは難しいのよね。「身体的」という言葉を使うと人は、「じゃあそれは感情的なことではないんだね」「精神的なことではないのね」なんて言うけれど、そういうことではないと思う。これはたぶん私の信念なんだけれど、身体ということをつきつめていくと、人のそのほかのすべての層をも表現するものとなっていくと思うの。だから、分けて考えているわけではないし、分けられるものでもないの。身体がより澄んだものになって、はっきりしてくると、すべての味わいのあることがらが身体を媒体にして流れ出てくるようになると思っている。

 ー私もそこのところに興味がある。ATの身体的な側面というのが、とても貴重だと感じる。でも身体的なところから入っても、身体的なところだけに影響するわけでなくて、分けられないから、 そこから入って心理的なところや精神的なところに影響していくというその可能性にすごく興味がある。それがどのように働いているんだろうというところを、もっとわかりたいなと思う。

 その前に、さっきの質問、なぜアレクサンダー・テクニークと言われるものを私がやりたいのかについて、最後まで答えるね。 その人全体という考え方に基づいているからということもあります。そして、過去に起こったことを分析したりするのではなく、今起こっていることを観察するという考え方に基づいているから。アレクサンダーの中心的な原理として、今していることに目を向けるということ、そしてそれは、もし変えたかったら変えることができるということがある。私はこの原理がとても好きなの。 そして、言葉やコミュニケーションについても問いをなげかけている。これも興味深いところです。

 そして、さっきの身体的ということに関しては、私はいつも、人がこういうことについて「そうそう!」というのを聞いて、おもしろいなと思うの。 私がいつもアレクサンダー・テクニークという職業の難しいと感じることがあるのだけれど、それは、ほかのものと関係をもつことにとても抵抗があるということです。英国では特に、そういう傾向があることによってダメージを受けていると思うんです。「自分たちがやっていることは代替医療じゃない。自分たちがやっていることは医療ではないし、治療でもない」「私たちは大学や学校では教えない。単位を認めたり、試験をしたりすることはできないから。」「私たちはそういうものとは違う」というふうに言う。

 たしかに違うよ。だから私はアレクサンダー・テクニークをやってるの。そういうふうに、ほかのことには収まりきらないことだから。それでも私は、共通点を認識できないというのは悲しいことだと思う。共通点を認識することが、今もっともっと必要になってきていると思う。だから、人によってはボディワーカーとして認識されるのをよしとする人もいる。いわゆる「ボディワーカー」とされているものにね。私はその言葉は好きではないけれど、でももちろん、体にはたらきかけている人も全体に関心があるのよ。体だけに関心があるわけじゃない。「ボディワーク」であれ何であれ、体だけに関心をむけているものはほとんどないと思う。ワークによっては、西洋医学のように、介入したり直したりするという意味で、より機械的なアプローチというのはあると思うけれど。だからアレクサンダーはいつも、「私たちはもっと間接的なアプローチでやるべきだ」と言っていた。だけど多くのほかのセラピーも間接的なアプローチなんだよ。だからこういうふうな社会的な認識において、分けることは私は悲しいことだと思う。

 そうは言っても別の意味では、アレクサンダー・テクニークはほかのものとは違うものだけれどね。

 でも、そうね、人がATについて語るとき『でも体をとおして全体にアプローチしていくでしょ』と言ったりするよね。これはおもしろいなと思うの。なぜなら私たちがATを学んでいくなかではもちろん、肝心なのは考えだってたたきこまれるわけだから。そうすると、どっちなのかしら? アレクサンダーの入り口は、体なのかしら、それとも考えなのかしら?

 ATのなかでも、教え方のスタイルの違いがあって、ある面を強調していたり、ほかの面を強調していたりするんだろうね。マージョリー・バーロウはよく神経組織について話していた。神経組織というのはとても、脳と考えと体の橋渡しになるものよね。

 私自身は、アレクサンダーが言っている、「人間の反応の質」というもののことをよく話す。私がこういう言い方が好きなのは、反応というのはすべてのレベルで起こるからなの。これは身体的なレベルだとか、感情のレベルだとか言うことはできないから。

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ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その2

ールシアはどういう教え方のスタイルが好きですか?

 そうね、わからないな。いろいろな場面において、すごく尊敬している先生たちがいるし、すごく尊敬している教え方がある。私がほかの人たちの教え方を尊敬していたり、それだけでなく、うらやましいと思ったりするとき私は、「何が起こっているんだろう」と見てみることが好きなの。それで、私もそれを学んで自分のものにしたいと思うこともあるし、あるいはただ、誰かがその人なりのやり方をとてもいい感じにしているのを楽しむだけのこともある。私はほかの人びとのほかのやり方をとり入れることが多いわね。

 でもそれとはべつに私は自分がやっている自分のやり方があるということもわかっている。だから私はそのやり方が好きなんだろうね。あるいは私はそれがうまくいくと思っているんだろうね。でも私はけしてそれがただ一つの教え方だとは思っていないし、一番いい教え方だとも思っていないの。それはただ、私がやっているやり方なの。

 ーではルシア自身が教え方としてやっているやり方とは?

 状況によって違うのよね。いろんなことが混ざり合っているわね。たぶんこの、混ざり合っているということが重要なんだと思う。自分たちの反応にもう少し自覚的になれるような機会をつくろうとしているんだと思う。そしてそういう機会というのは、いろいろあるの。私はそういう機会をさまざまなものにしておくということが大事だと思っているの。だから、いつも日常の動作やパフォーマンスのアクティビティをレッスンで扱うわけではない。ときには、まったく新しいアクティビティをやるように提案することもある。何の役にも立たないようなね。あるいはただ、今起こっていることを、即興的にやることもある。

 そして、触れること、ハンズ・オンがある。私は触れることによって何が実際に起こっているかについて、ずっと研究している途中なの(笑)。たぶんそれさえも、そのときによって違うし、人によって違うのよね。わからないんだけれど、何か違うことを知るための機会を提供することだったり、何か違うことをするための機会を提供することだったりするんだと思う。そうして、可能性がひらかれる。そんなようなことだと思う。

 よく生徒はレッスンのとき、落ちついて平和な感じになったとか、静かになったとか言う。でもしばらく前まで私は、「静かだとか、平和だとかいうのって退屈じゃない?」と思っていたの。そういうのを好む人たちが多いけれど、私自身がそういうのが好きかどうかはよくわからなかったの。でもアレクサンダーは、そういうのを好んでいた。「そういう静かな、落ちついて集中できる状態、つまり、その人の理にかなったプロセスがはたらく状態にならなければ、何も学ぶことはできないし、経験することができない」というようなことをアレクサンダーは言っていた。私もそれはたしかにそうだと思う。あちこち興奮しすぎていたら、新しいアイデアでさえも、そこに入ってくるのはむずかしいよね。それで触れることみたいなことが、こういうことをとても自然な形で助けるんだと思う。同時に、教師自身がもっている質がモデルになって、そういうバランスのとれた状態になることを助けるんだと思う。そうすると、人は何かをとりいれられるようになる。人はそういうことが好きだし、より心地よく感じるのよね。私にとっては、ほかのやり方よりも触れることによってそういうことを助けることが、やりやすいの。

 ー教え方は、教えるにつれて変化してきましたか?

 (少し考えてから)そうね。学ぶにつれて変わってきたわね。今までに話したようなことであるけど、同時に、自信(あるいは、起こっていることへの信頼= confidence)というのがどこからやってくるかということとの、バランスでもある。

 ー(一同)自信が、どこからやってくるって?

 自信がどこからやってくるか、それはわからない。でも、言えるのは、より自由になって、より、今ここに存在するようになることによって、自信がやってくるということ。でもそういうことはすごく難しい。 だから教え始めた当初は教えられた型のなかで教えていたよ。とくに個人レッスンではね。だいたいの場合、それはチェアワークであって、ライダウンのワークであって、とても単純な動きのワークだった。ある意味ではそれは今でもそうは変わっていない。ただ今は、生徒が質問したり、言ったりしたことからレッスンをはじめることが多い。私自身のアイデアからというよりもね。だから、レッスンで何が起こるかはわからないことが多いの。個人レッスンはこんな感じかな。

 そしてグループに関しては、私は教師養成のトレーニングを卒業してわりとすぐにグループのレッスンを教えはじめたの。私たちはグループを教えるとき、「このグループレッスンは単なる導入です」と言わないといけない、と教えられていたの。同じグループで10レッスンぐらいするときであってもね。最初にやったクラスのノートを今見てみると、今やっていることとほとんど変わっていないのよね。でも違いとしては、今私は、「これは単なる導入です」と言うのは十分でないと思うの。1回しかクラスをやらなかったとしてもね。もしかしたら来た人たちがそこから興味を持って、もっと学びたいと思うかもしれないけれど、それでも、その地点に学びがある、ということでないといけないと思う。私は「もしこれを勉強したらこういうようなことを学べますよ」というようなことを言うつもりはないの。私が教えられていたのはむしろそういうことだったんだけれど。それより「これが今学んでいることです。ちょっとしたことだけれどね」というような感じ。

 でもやっている形としては、昔と変わっていないですね。つまり、少し説明して、少し実験する-ゲームのなかで実験して、実際的な動きのなかで実験する。ただ最初のころは、グループで触れることはあまりしなかった。それが、触れることのパワフルさに気がついて、今はそれも含めるようになった。

 ーそうすると、アレクサンダーの教師のなかでは、1回だけのレッスンで本当に何かを教えることは不可能だとか、また、たくさんの人がいるグループで本当に何かを教えることは不可能だとか言う人もいると思うけれど、ルシアはそうは思っていないということですか?

 そうね、ある意味ではそうは思っていないかもね。そういう考えの先生と話したことがあるの。だれかがレッスンを受けたいと言って来たら、彼女はその人に、一週間に2回(3回だったかしら)、来ないといけないと言うんだそうなの。1週間に2回か3回のレッスンをかなり長い期間受け続けないといけないということだったと思います。もしそれが無理だったら、それができる状況になるまで待ってもらんだそうなの。

 私はそれを聞いて、少しショックだったのよね。なぜなら私自身は、誰かが「2回ぐらいだけ、試しにレッスンを受けられますか?」と言って来たら、「どうぞ」と言っているからね。そして、2回のレッスンのなかで何かを学ぶことを、期待しているの。

 だから、私のなかには、どちらの気持ちもあるわね。もうひとつの考え方のほうも理解できるの。なぜならそこがATの、ほかのものと違うところだと思うから。ATは継続していくワークなの。ATは、「わかった。すべて理解したから大丈夫」というようなものではないの。ATは言ってみれば、永遠に変化を起こさせていき、ものごとを運んでくるものなの。

 だから、どちらとも言えるけれど、私は2回だけであっても、やってみる価値があると思う。可能性にひらいてみる価値があることだと思うから。ただそれは私がそういうふうにしているということだけであって、どちらのほうがよりよいのかはわからないけれどね。

 でも、私自身がどれほど学ぶ必要を感じているかということを考えたらね、だって、私は3年間の教師養成トレーニングをした後、16年かそこら教えているのよ。「それだけやっていまだに私が学べていないものを、4回だけレッスンに来た人がどうして学べるかしら?」と思ったりすることはあるわよね。だけどね、4回だけレッスンに来た人も実際、学ぶのよね。もしかしたらその人たちは、私より学ぶのが早いのかもしれない。もしかしたらその人たちは、私と少し違うものを求めていたからかもしれない。でもとにかく、4回だけレッスンに来た人でも学んでいるのよね。

 私が教えている夏季講習会で、大変なのがあるの。歌手の講習会で、1日に28人の歌手を、7人づつのグループに分けて10分づつ教えるの。7人づつが、お互いを観察したりすることになるわけだけど、私はそのとき、「こんなことやっても意味ない」と思ってしまったの。何の役に立つのか自分で教えていてわからなかった。でも翌年、そのなかの何人かはまた来て、「去年やったことがとても役に立ったんです」と言うのよね。またそのなかのある人はその後自分で、もっと学べるところを探したりしていたのよね。

 ー教えることをやめようと思ったことはありますか?

 教えるのをやめようと思ったこと?

 ーそう。もういいや。やめた、というような感じに。

 そういうことはなかったかな。今でもテクニークを使っているからね。教えるということは学ぶためのとてもよい場所だから、それをやめるのは想像できないな。

 ただ、「私が教えたり学んだりしたいやり方はATという形ではない」と思ったことはあった。私が尊敬する人たちがほかのことを学んでいるのを見たとき、私もそれを学びたいと思ったことはあった。でも、おかしいんだけれど、私が手放したくなかったのは、またもや、触れることだったのよね。触れることによって情報を分かち合うということだった。それ以外のことは、ほかの方法でもできると思うけれどね。触れることを使ったほかの訓練法にも、すごく興味深いものがたくさんあるんだけれど、私が知っているアレクサンダーの教師のなかでもクレニオ・セイクラル・セラピーやクレニアル・オステオパシーや、そのほかのものをやっている人などがいるけれど、そういうもののうちにも、 ATと同じ質のものはひとつもないのよね。

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